第2章
それまで一言も発しなかった琳が、会話を断ち切るように口を開いた。
本当の琳は馬鹿ではない。ただ反応が遅いだけだった。橘家に認めてもらいたくて必死に勉強し、ようやく今回の数学でCを取った。
褒めてもらえると思ったのに、夢子にカンニングだとでっち上げられ、成績は取り消されて罵倒だけが残った。
夢子は雪枝を支え起こし、白目をむいて鼻で笑う。
「お姉ちゃん、意地張らないでよ。帝都高校の誰もが、お姉ちゃんが鈍いって知ってる。どんなに勉強したってDしか取れないのに、急に数学でC? 誰が信じるの」
額を擦りむいた雪枝は、怒りをため込んだまま吐き捨てる。
「まったく。小娘のくせにカンニングだの嘘だの……橘家は呪われてるの? こんな娘がいるなんて」
「夢子が優秀で品行方正で本当に良かった。でなきゃ橘家の面目はとっくに潰れてるわ」
夢子が得意げに笑い、甲斐甲斐しく雪枝の腕を取る。
雪枝は琳を見下し、嫌悪を隠さず命じた。
「すぐ反省文を書きなさい。明日、全校生徒の前で読み上げて公開謝罪。学校に寛大な処分をお願いするのよ」
琳は腕を組み、冷ややかに顎を上げる。背筋はまっすぐだ。
「もう一度言う。私はカンニングしてない」
「そこまで言うなら、今すぐ試験を解き直せるか?」
中村が唐突に提案すると、夢子がすかさず嘲笑した。
「中村校長、それじゃまた恥かかせるだけですよ? やれるわけないじゃないですか」
「何がやれない」
琳は即答した。
「私が潔白を証明したら……あなたは」
蝋色で荒れた手が、中村を指す。
一語一語、釘を打つように。
「明日、全校の前で私に謝って」
「はあ!? 琳、頭がおかしくなったのか!」
――
街の反対側。巨大な邸宅の薄暗い一室。
男がイタリア製の特注レザーソファに優雅に腰掛け、高級スーツ姿の秘書が頭を下げる。
「社長。ご婚約者が、また学校で騒ぎを起こしました。手を回しますか?」
長い指先がタブレットを滑る。画面には、ミシシッピ密林の大爆発の速報。
そこへ新着メッセージがポップアップし、二人の写真が表示された。
一人は吉良。もう一人は――少女。
――
校長室。
琳は左手で頬杖をつき、右手のペンを走らせて解答欄を埋めていく。
高校範囲の問題など、血羽にとっては目を閉じても解ける。
一秒で十問。眠気が差してくるほどだった。
遠くで三人が見て嘲る。
「ママ、見てよ。琳、もう寝そう。絶対一問も分かってないって。ははは」
夢子は見下すように言う。
「今回の中間、前よりずっと難しいのに。私だって数学も英語もBがやっとよ。琳みたいな鈍い子はD取れれば上出来。中村さん、こんな子に時間使う必要あります?」
「まあな。証拠が掴めなかった以上、本人が否定するならこうするしかない」
「校長室には監視カメラがある。解いてるところは全部記録だ。言い逃れできん」
中村は熱い茶をすすり、薄ら笑う。六枚すべてがFになる光景を、すでに想像していた。
琳は再び欠伸をして最後の化学の用紙を取り出し、ざっと目を走らせると、半眼のまま秒で書き始めた。
二分後。ペンが止まる。
「終わり」
入口で喋っていた三人が一斉に振り向く。
雪枝が嘲るように言った。
「たった十分で、六枚全部?」
「十分? ……確かに少し時間かかった」
手順を書き込むのが面倒だっただけだ。
「……は?」
夢子は、どうせ適当に埋めただけだと決めつけて笑う。
「琳、欄を埋めれば点がもらえると思ってる? ははは」
中村と雪枝もつられて笑う。
「もういい、恥を上塗りするな。さっさと帰って反省文を書け」
――十分で何ができる。琳の頭なら数学の一問目すら怪しい。
中村も同じ考えだったが、監視が回っている。形式だけは踏む必要がある。
嫌々六枚を手に取り、赤ペンで数学から確認を始めた。
「一問目……C。……合ってるな」
「どうせ勘でしょ。あれ難化してて、結構みんな落としてたし」
夢子がせせら笑う。
中村は二問目へ。
「二問目も……合ってる。……おい」
三問目、四問目――。
十二問の選択が、全部正解。
校長室に、気味の悪い沈黙が落ちた。
中村は口を閉ざし、赤ペンを走らせて穴埋めと記述へ――。
……全問正解。
最後の大問まで正解。しかも解法の流れも完璧。満点の模範解答だった。
それも、全科目がA+。
夢子は口を開けたまま固まる。
「……ありえない!!」
「どうして全部満点なの!? 私だってBなのに!」
机上には、国語以外すべて満点の答案。しかも十分。
雪枝も言葉を失う。
「分かった!」
夢子が机を叩いた。
「答えを事前に暗記してたんだ! だからあんなに即決で解き直しに賛成したんでしょ!」
中村は、ようやく息をついたように顔を作って厳しく言う。
「琳……失望した」
「信じてやって機会を与えたのに、事前に答えを暗記していたとは」
中村が指さす。
琳は腕を組んだまま、薄く笑った。
「中村校長、頭、残ってます?」
「琳! 校長先生に何て口の利き方! 謝りなさい!」
雪枝が怒鳴る。
琳は聞き流し、中村へ続けた。
「今朝、試験は全部終わったばかり。公式の模範解答は出てない。私が暗記するって、どこで? あなたの脳内で?」
「ぐっ……!」
中村は反論できない。だが、鈍いはずの琳がA+など――。
琳は欠伸を噛み殺し、苛立った声で言う。転生してから、なぜかずっと眠いのだ。
「私はカンニングしてない。明日の全校集会で、あなたは私に謝る」
校長が生徒に公開謝罪? 相手は「鈍い子」? あり得ない。
中村は鼻で笑った。
「満点を取るために汚い手を使ったくせに、俺を脅す気か。なぜ俺が謝らねばならん?」
琳は本棚にもたれ、瞳の奥だけが冷たく光る。
「この部屋には監視がある。私が学監会に提出したら――謝罪じゃ済まない」
「……お前……!」
