第5章
由利もそれに気づき、眉をひそめてネックレスから髪の毛をつまみ上げる。だが次の瞬間、琳は手を放し、逆に彼女の頭をぐっと後ろへ引いた。
勢いで由利はよろめき、悲鳴とともに教室後方のロッカーに激突してひっくり返った。頭を打って目を白黒させ、髪は乱れ、令嬢の面影など微塵もない。
怒りに燃えた目で叫ぶ。
「琳、よくも私を突き飛ばしたわね!!」
琳は腕を組んだまま、まるで相手にしていない。
「そのネックレス、ずっと身につけてたんでしょ。簡単に誰かの髪が絡むような位置じゃない。つまり、宝石に直接触れた人間が髪を落としたってこと」
「私は金色の短髪。だから私じゃない」
「ここに絡んでるのは、長くて巻いてる栗色の髪。……さて、あなたの周りの誰でしょうね?」
床にへたり込んだ由利は怒りに任せて琳を睨みつけ、思考が追いついていない。だが、取り巻きの一人が青ざめて呟いた。
「長くて巻いてて栗色……それ、夢子の髪じゃ……!?」
琳は鼻で笑う。
「やっと使える頭が一つ出てきた」
そう言い捨て、彼女は平然と教室を出ていった。
さっきまで面白半分で眺めていた夢子が、途端に真っ青になる。
「違う! 私じゃない!」
ロッカーの前で立ち上がった由利が、夢子へ怒鳴りつける。
「じゃあ何で私の宝石にあんたの髪が付いてるの!?」
「夢子、私のサファイアを盗んで、私に恥をかかせるつもりだったのね!!?」
由利は琳を憎んではいるが、馬鹿ではない。夢子は怯えて後ずさりし、必死に弁解する。
「違うの、由利、誤解よ! 全部あの琳の罠で、騙されちゃ……」
言い終える前に、由利の平手が容赦なく飛んだ。パァンと甲高い音が響き、夢子の頬がみるみる腫れ上がる。泣きじゃくりながら許しを請うが、由利の怒りは収まらない。
……
退屈で幼稚な授業を一日聞き流し、琳はバッグを背負ってゆっくりと家路についた。
少し離れて、一つの影がずっとついてくる。前を歩いていた琳はふいに立ち止まり、振り返らずに言った。
「一緒に歩くなら出てきて。後ろに張りつかれるの、鬱陶しい」
突然声をかけられ、梨乃は驚いて肩を跳ねさせた。あんなに距離があったのに、どうして気づかれたのだろうか。
小走りで追いつき、梨乃はおずおずと琳の顔色をうかがう。
「言いたいことは?」
「琳……なんか、別人みたい。今日の講堂での発言、すごくかっこよかった」
「それに、教室で夢子をやり込めたことも私たちのクラスまで噂になってるよ。どうして急に、そんなに強くなれたの?」
梨乃と琳は橘家でひどい扱いを受けており、そのせいで性格も似通っていた。家でも学校でも、常に虐げられる側だったのだ。
琳はだるそうにバッグを背負い直し、気ままに言う。
「前は面倒で相手にしなかっただけ」
「今は分かったの。やり返さなきゃ、あいつらはもっと踏みつけてくる。怖がらせれば、寄ってこない」
琳より頭半分小さな梨乃は、首を傾げて呟く。
「……たしかに、そうかも」
二人が橘家の邸宅に入り、靴も脱ぐ前に、いきなり怒号が飛んできた。
「琳! よくもやったわね! 森田家の令嬢の宝石を盗んで、捕まったら陰険にも夢子に罪をなすりつけた!? 今日は徹底的に躾け直してやる!」
玄関には雪枝が怒りに震えて立ち、手には長い鞭を握りしめている。その背後には夢子がいた。
夢子の左頬にはくっきりと赤い指の痕があり、ひっくひっくとすすり泣いている。
「ママ……お姉ちゃん、卑怯なの。盗んだのが由利にバレて、責められるのが怖くて私に押しつけて……」
「由利も由利で、お姉ちゃんの出鱈目な言い訳を信じ込んじゃって」
「そのせいで、見て、私こんなに叩かれて……」
「ううっ、ママ、助けて。お姉ちゃん、どうして私にこんなことするの? 私、何もしてないのに」
愛娘の腫れ上がった顔を見て、雪枝の怒りは頂点に達した。玄関の琳を憎々しげに睨みつける。
「琳、こっちへ来なさい!! 今日は容赦しないわよ!」
だが、琳の背後にいた梨乃が一歩前に出て、彼女をかばうように小声で言った。
「橘さん、違うんです。琳は盗んでなくて、最後に、その……」
「黙りなさい!」
雪枝が吐き捨てる。
「下賤な使用人の腹から出た分際で、私の話に口を挟む気!?」
「今日はあんたも一緒に躾けてやるわ!」
雪枝が鞭を振り上げ、前に立つ梨乃へ容赦なく叩きつける。梨乃の顔から血の気が引いた。
――だが刹那。琳が片手で鞭を受け止めた。
そのまま手首をひねり、ぐんと前へ引く。雪枝は一瞬で重心を奪われ、数歩よろめいて派手に転倒した。
「奥様! 大丈夫ですか!?」
控えていた使用人たちが慌てて駆け寄る。雪枝は起き上がりながら、震える指で琳を指さした。
「琳、調子に乗るんじゃないわよ! 私を殴ったわね!!」
「私のことを何だと思ってるの! ここは橘家よ、あんたがふんぞり返る場所じゃないわ!」
琳は片手で鞭を握ったまま、二度三度、空を切って鳴らした。
「殴る? 私がその気なら、あなたの死体なんて何度冷えたか分からない」
一歩、また一歩。琳が雪枝へ迫る。使用人が止めに入ろうとするが、琳の鋭い視線ひとつで圧倒され、思わず後ずさった。
――どうして。あの愚かで臆病な田舎娘が、こんな威圧感を放っているのか。
琳は高みから見下ろし、侮蔑を込めて言い放つ。
「なんであなたを敬う必要があるの?」
「名誉のために実の娘を捨てて――」
琳はわざと夢子を一瞥し、声を強めた。
「夢子っていう野種を、実の娘の代わりに橘家へ置いた」
「そんな、顔も恥も捨てた人間が、私の母親面しないで」
「……なっ!?」
「琳、狂ったの!? 自分が何言ってるか分かってるの!?」
醜悪な秘密を衆人の前で暴かれ、雪枝は心臓を掴まれたように息を詰める。
だが次の瞬間、ヒュンッと鋭い風切り音が響いた。鞭が雪枝の手元の床を激しく叩き、雪枝はびくりと身を震わせる。
あの臆病な田舎娘が、どうして急にこんな恐ろしい真似を!?
雪枝は驚愕に見開き、声も出せない。ただガタガタと震えながら、不満と怒りを隠しきれない目で目の前の少女を睨みつけるしかなかった。
琳は背筋を伸ばし、だるくなった手首を軽く叩く。やはりこの身体は鍛錬が足りていない。今の動き程度、以前の自分なら何ともなかったはずだ。
彼女は冷酷に告げる。
「雪枝。あなたは私の母親にふさわしくない。これから私の前では、身の程をわきまえなさい」
「琳、誰に向かって口を利いてるの!!」
琳の鋭い眼光が突き刺さる。
「次に余計な真似をしたら、あなたたちの『野種』って身分、お祖父様に全部バラすから」
その一言で、その場にいた二人はぴたりと口を閉ざした。
