第六章
先ほどまで喚き散らしていた雪枝も、今は押し黙っている。琳が自分の実の娘であることは賢治様には秘密であり、もし知られでもしたら、ただでは済まないからだ。
周囲の使用人たちも空気を読んで口をつぐんだ。その後、琳は梨乃を連れて自室へと戻った。
午後に琳が一騒動起こしたおかげで、橘家の別荘には珍しく静寂が訪れていた。
これまでの琳は、家にいれば雪枝にあれこれと怒鳴りつけられ、外に出れば買い出しの使い走りをさせられるなど、まるで下働きのように扱われてきた。
橘家の使用人たちも人を見る目に長けており、普段から陰に日向に彼女をいじめていたのだが、今日の午後の一件ですっかり大人しくなり、かえって清々した。
琳は部屋のロッキングチェアに寝そべり、眠たげに目を細めながら、明日から少し身体を鍛え直そうかと算段していた。そこへ、ドアをノックする音が響いた。
「琳、入ってもいい?」
「入って」
梨乃がおずおずとドアを押し開ける。二人の部屋は一階の片隅に隣り合っており、日当たりも風通しも悪く、常にじめじめと冷え切っている。布団からは少しカビの臭いすら漂っていた。
ある意味、どちらも哀れな境遇と言えた。
「琳、さっき問題集を解いてみたんだけど、よく分からないところがあって。教えてもらえないかなって」
梨乃は頭の回転こそ鈍いが、勤勉で素直な性格をしており、何より心根が優しかった。
ノートを抱えてすがるような目で見下ろしてくる彼女を、琳は薄く目を開けて一瞥し、淡々と言った。
「みんな私のことを馬鹿だって言ってるのに、でたらめ教えられるとは思わないの?」
梨乃は慌てて首を横に振る。
「そんなことないよ。転校してきて半年でCを取れたんだから、私よりずっと勉強ができるはずだもん。だから教えてほしいの」
「私がカンニングしてないって、信じてるの?」
「当たり前だよ。みんな琳のこと知らないから適当なこと言ってるだけ。琳がカンニングなんかするわけないって、私には分かるよ!」
そう言い切ると、彼女はポケットからキャンディをひと掴み取り出し、琳の手に押しつけた。
「琳、これ食べてみて。お小遣い貯めて買ったんだけど、すっごく美味しいんだから」
真っ直ぐな瞳で教えを乞う梨乃に、琳もさすがに少しだけ毒気を抜かれた。上体を起こし、彼女が手にしている問題集をちらりと一瞥するなり、考えるそぶりも見せずに口を開く。
「この問題はピタゴラスの定理をそのまま当てはめればいい。数字を公式に代入して計算して。答えはD」
「えっ? 琳、まだ問題もちゃんと見てないのに」
梨乃が巻末の解答欄をめくって確認すると、なんと本当にDだった。
その後、梨乃は琳の言った解法を一つ一つ理解して当てはめるのに悪戦苦闘した。二十分後、彼女は弾んだ声を上げる。
「すごい! 本当に琳の言った通りに解けちゃった」
それでも梨乃は半信半疑だった。そこそこ難易度の高い問題なのに、一秒で解けるわけがない。ただ運良く当たっただけではないだろうか。
いくら琳が真面目に勉強していたとしても、ここまで賢いはずがない。
梨乃は確かめるように、今度はかなり難解な記述問題をめくって見せた。
「琳、じゃあこの問題は……」
言い終わるより早く、琳は一瞥しただけで即答した。
「さっきのと同じ考え方。問い方が少し変わってるだけだから、さっきの公式で解ける」
「えっ? 二つとも同じなの?」
梨乃は信じられない思いで、言われた通りに手を動かしてみた。半分後、彼女は歓声を上げる。
「本当だ! 答えとぴったり同じになった!」
梨乃は目を輝かせて琳を絶賛した。
「琳ってすごい! みんなが言うような馬鹿なんかじゃないよ。本当はすっごく頭がいいんだね!」
琳は素っ気なく返す。
「前は勉強するのも、答案を埋めるのも面倒だっただけ」
「でも、そんなに頭がいいのに、どうしてみんなにいじめられてたの?」
「琳の顔の傷が治って、私がもっと賢くなれたら、学校のみんなも私たちをいじめなくなるのかな?」
目を閉じたまま、琳は鼻で笑った。
「甘いね。私たちがどう変わろうと、あいつらは弱い者を叩くだけ。いじめられたくなければ、自分が強くなるしかない」
梨乃の言葉自体は的外れだったが、琳にとっては一つの気づきとなった。
元の身体の持ち主がブスと嘲笑されていた最大の原因は、顔に刻まれた醜い傷痕だ。
以前の琳はずっと田舎で育ち、五歳の時に畑仕事で誤って鎌で顔を切ってしまった。当時の家は貧しく、血を止めただけで傷痕の治療まで手が回らず、結果として今に至るまで痕が残ってしまったのだ。
だが、傷痕を消すことなど彼女にとっては造作もない。血羽は生化学に精通したトップクラスの頭脳を持っている。傷痕を消す成分を調合するくらい、朝飯前だった。
翌日、登校中のこと。
琳が傷薬の調合について考えを巡らせていると、不意に背後から慌ただしい足音が近づいてきた。小さな影が彼女の横に並び、袋入りのパンを差し出す。
「琳、これ。朝ごはん、食べてないでしょ? 昨日の夜の勉強のお礼だよ」
昨日、雪枝にあれほどの口答えをしたのだ。当然ながら今日の橘家で琳の朝食が用意されるはずもなく、彼女は昨晩から何も口にしていなかった。
もっとも、一食や二食抜いたところで、彼女にとっては大した問題ではない。
「いらない。自分で食べな」
そう言えば引き下がるかと思ったが、梨乃はさらにパンを押しつけてきた。
「受け取ってよ。私、朝は家でこっそり食べてきたから、今はお腹空いてないの」
琳がためらいつつ手を伸ばしてパンを受け取ろうとした瞬間、耳障りな嘲笑が飛んできた。
「あら、ブスが二人で仲良くお揃い?」
由利が腕を組み、顎をツンと上げて見下している。その背後には柄の悪そうな女子生徒が数人控えていた。彼女たちがぞろぞろと校門をくぐると、登校中の生徒たちは蜘蛛の子を散らすように道をあける。
梨乃はその威圧感に怯えて首をすくめ、琳の背後に隠れるように身を寄せた。
琳は少しも怯むことなく由利を見据えたが、無意味な挑発に付き合う気など毛頭なく、そのまま踵を返して立ち去ろうとした。
だがその態度が由利の神経を逆撫でした。彼女は一歩踏み出して琳の行く手を遮り、声を張り上げる。
「昨日の件が終わったからって、許されたとでも思ってるの?」
昨日のサファイアの一件、盗んだのが琳ではなかったにせよ、クラス全員の前で顔に泥を塗られたことが、由利にとっては腹立たしくてたまらなかったのだ。
由利の取り巻きたちが、ここぞとばかりに凄む。
「由利を怒らせたんだから、土下座して謝りなさいよ!」
「そうよ。琳、今ここでみんなの前で土下座すれば、由利も機嫌を直して見逃してあげるかもしれないわよ。じゃなきゃ……」
取り巻きの言葉が終わるより早く、琳は冷たく鼻を鳴らし、鋭い視線を射抜いた。
「あんたたちみたいな馬鹿の遊びに付き合ってる暇はない」
「なっ!?」
てっきり琳が震え上がって謝罪すると思っていたのに、予想外の強気な態度。遠巻きに見ていた生徒たちは思わず口元を押さえて忍び笑いを漏らし、由利へ向ける視線にはどこか面白がるような色が混じっていた。
これで由利の怒りが完全に爆発した。彼女は激昂して歩み寄り、琳の手からパンを乱暴に叩き落とすと、憎々しげに吐き捨てた。
「調子に乗るんじゃないわよ! 今日こそ痛い目を見せてやる!」
