第7章
パンが地面に転がり落ち、砂埃にまみれる。琳は一瞬だけ動きを止め、足元に落ちたそれを静かに見下ろした。
梨乃はすっかり怯えきっていた。琳の背中に隠れるようにして、震える声で必死にすがる。
「琳、やっぱり先に謝ろうよ。あの子たち、すごく怖い……」
声の震えが止まらない梨乃とは対照的に、琳の声音はどこまでも冷ややかだった。
「昨夜、私がなんて言ったか忘れたの? こっちが弱みを見せれば見せるほど、つけ上がって虐げてくる人間もいるのよ」
「でも、相手は大人数だし、私たちじゃ敵わないよ……」
「あら、ブス二人が顔を寄せ合って、何をこそこそ話してるのかしら?」
「どうせ震え上がって、泣き言でも言ってるんじゃない? あははっ」
押し黙る琳の姿を見て、由利の後ろに控える取り巻きたちはさらに図に乗った。
だが、琳はただ地面のパンをじっと見つめ、氷のように冷たい声で言った。
「あんたたち、こうやって食べ物を粗末にしてるわけ?」
かつての彼女は贅を尽くした生活を送り、使い切れないほどの金と食べきれないほどの美食に囲まれていた。だが、他人が食べ物を粗末にすることだけは、死ぬほど嫌悪していた。
それは今でも変わらない。こんな真似は、絶対に許せなかった。
「はあ? あんた、まさかそのパン一個が惜しいわけ? あはははっ、貧乏人はいつまで経っても貧乏人ね。本当にみっともない」
「琳、もしかしてそれが今日一日のご飯? あんなゴミみたいなパンを宝物扱いするなんて。そんな不味そうなパン、由利様の靴を磨く雑巾にもならないわよ」
取り巻きの言葉に気を良くしたのか、由利の眼差しはさらに傲慢さを増し、吐き捨てるように言った。
「靴磨き? ふふっ、そんなパン、触るだけで吐き気がするわ。豚の餌と何が違うの? 豚の餌で靴を磨くバカがどこにいるっていうのよ」
野次馬の数は徐々に膨れ上がり、誰もが面白半分に輪の中心にいる琳へと視線を送っていた。
すると彼女はしゃがみ込み、泥だらけになったパンを片手で拾い上げたのだ。
「琳、パンはもう汚れてるから……やっぱり早く謝ろう。これ以上、事を荒立てないで」
梨乃がおずおずと口にするが、背後からの嘲笑はさらに大きくなる。
「嘘でしょ、ちょっと見てよ。あいつ、地面に落ちたパン拾ったわよ。まさかそのまま食べる気?」
「琳ってすっごい貧乏らしいから、案外本気でそのキモいパン食べるんじゃない!」
「あはははっ、ゴミみたいな人間はゴミを拾って食べるしかないのね」
耳障りな嘲笑が飛び交う中、梨乃は横でガタガタと震えるばかりで、どうしていいか全く分からずにいた。
琳は手の中のパンを見つめていたが――次の瞬間。
目にも留まらぬ速さで身を翻し、左手で由利の頭を鷲掴みにすると、右手でそのパンを由利の口へと無理やりねじ込んだ。
「がっ! り、琳、あんた、なにを……」
悲鳴はパンによって喉の奥へと押し込まれた。琳は両手で由利の顎をがっちりと固定する。その力は凄まじく、由利には抵抗する術すらない。酸欠に陥った由利が、たまらずパンを喉の奥へと飲み込んだのを見届けてから、琳はようやく手を離した。
「ゲホッ、ゴホッ!」
泥だらけのパンを飲み込まされた由利は激しくえずき、血走った目で琳を睨みつけて怒鳴り散らした。
「殺してやる……! よくもこんなゴミを私に食わせたわね!」
琳は鼻で笑う。
「ゴミみたいな人間はゴミを食べるしかない。その言葉、そっくりそのままお返しするわ」
由利こそがそのゴミだという痛烈な皮肉。由利は怒りのあまり殴りかかろうとしたが、琳から放たれる圧倒的な威圧感に気圧され、一言も発することができなかった。
「琳、頭おかしくなったの!? こんなことして、由利様の家族が黙ってると思ってるわけ!?」
「森田家が絶対にあんたを許さないわよ! 琳!」
琳はつまらなそうに唇を尖らせ、相手の脅しなど全く意に介さなかった。
「こんなみっともないことでいちいち親に泣きつくなんて、本当に弱すぎるわね」
「あんたっ!!」
由利は発狂しそうなほど怒り狂っていたが、周囲の野次馬たちは誰一人として声を出さなかった。普段から学校で我が物顔に振る舞う由利を快く思っていない者は多かったが、森田家の権力を恐れて誰も口出しできなかったのだ。
だが今、琳が誰もできなかったことをやってのけた。多くの生徒が、由利へ向ける視線に軽蔑の色を滲ませていた。
由利が憎悪に満ちた目で琳を睨みつける。しかし、琳がわずかに手を動かしただけで、由利はビクッと怯えて後ずさりした。その無様な姿に、琳は冷笑を漏らす。
「怖いなら、さっさと失せなさい。今回は手加減してあげたけど、次はないわよ。絶対に後悔させてやるから」
「り、琳、今に見てなさいよ!」
由利は震える指で琳を指さし、最後は逃げるように取り巻きを連れて校門の向こうへと消えていった。
騒動が一段落すると、野次馬たちも蜘蛛の子を散らすように去っていき、やがて校門前には琳と梨乃の二人だけが残された。
梨乃は震えながらも安堵の息を吐き、驚きを隠せない様子で口を開く。
「琳、あんた……すごく勇敢だった。かっこよかったよ。
でも、由利にあんなことして、仕返しされないか怖くないの?」
「怖いことなんて何もないわ」
琳はあくびを一つ噛み殺し、再び学校へ向かって歩き出す。校門のカーブミラーを通り過ぎた時、そこに映る自分の顔の傷痕がふと目に入った。
血羽は元来、身なりに気を使う性質だ。顔に傷痕を残したまま生きていくなど、彼女の性に合わない。翌日は週末だったため、琳は腹ごしらえを済ませると、気怠げな足取りである研究センターへと向かった。
この研究センターは資金難に陥っており、空き室を貸し出しているという。傷痕を消すための成分を開発するにあたり、ちょうど研究室が必要だったのだ。
だが、研究所の受付に着くや否や、非情な現実を突きつけられた。部屋のレンタル料は一日三万円、一ヶ月で九十万円にもなるという。
かつての血羽にとっては端金にも等しい額だが、今の琳にとっては途方もない大金だ。
駄目だ、なんとかして金を稼ぐ方法を考えないと。
雪枝から毎月渡される生活費を頼りにしていては、二日と持たずに餓死してしまう。研究室を借りるなど夢のまた夢だ。
道端で適当に棒付きキャンディを買い、橘家の別荘へ近道して帰ろうとした時のことだった。路地を曲がった直後、遠くから猛スピードで走ってくる一台のバイクが目に飛び込んできた。
突然、運転手がバランスを崩し、琳からわずか半メートルの距離で横転した。男の身体は激しく地面に叩きつけられ、バイクは火花を散らして遠くへ弾け飛ぶ。
地面に倒れ伏す黒いレザージャケットの男。その腹部には銃創らしきものがあり、絶え間なく血が溢れ出している。唇は青白く、一目で致命傷を負っていると分かった。
むせ返るような血の匂いが空気に混じる。琳はわずかに眉をひそめると、躊躇うことなく歩み寄り、男のそばにしゃがみ込んだ。
怪我の具合を確かめようと手を伸ばした瞬間、倒れていた男がカッと目を見開き、獰猛な声で威嚇してきた。
「失せろ! てめえは何者だ、奴らの仲間か!?」
琳は男の問いには答えず、傷口を一瞥して淡々と言う。
「さっさと手当てしないと……」
言葉を言い終えるより早く、男は懐へ手を突っ込み、漆黒の拳銃を引き抜いた。冷たい銃口が、琳の額にぴたりと突きつけられる。
「ごちゃごちゃ抜かすな! 奴らの手先なら、ここで殺す!」
そして、男の指が容赦なく引き金を絞った。
