第2章
工藤花恋は喉の奥が詰まり、胸の底からじわりと寒いものが湧き上がった。
そうだ。自分と三浦央士は、いわゆる契約結婚みたいなものだった。
あのとき――路上で脳卒中を起こして倒れていた三浦婆さんを助けなければ、彼女が三浦家に嫁ぐことなんて、きっとなかった。
当時、岡田明菜はちょうど海外に出ていて、三浦央士は彼女と別れたばかりで、すっかり気力を失っていた。
そこへ三浦婆さんが「花恋と結婚しなさい」と言い渡した。
本人は乗り気ではなかった。けれど、誰と結婚しても同じだと思ったのか、結局うなずいた。
そして花恋もまた、弟を救うためにまとまった医療費が必要で――断れるはずがなかった。
三浦央士は花恋を愛していなかった。
婚前契約を突きつけ、「対外的には夫婦関係を公表しない」「互いの恋愛に干渉しない」と、あまりに淡々と条項を並べた。
気持ちが良いはずがない。
それでも、花恋は署名した。
なのに結婚して、日々を重ねるうちに。
花恋は、三浦央士を好きになってしまった。
三浦夫人としてきちんとありたい。名ばかりの妻じゃなく、ちゃんとした妻になりたい。
彼の好みは全部覚えた。
甘いものが好きで、辛いものは苦手。マンゴーはアレルギーが出る――。
残業の夜はいつも深夜まで起きて待ち、帰ってきた彼が、せめて温かい麺を食べられるようにと、台所に立ち続けた。
愚かなくらい信じていた。
いつか、彼の心の氷も――自分の真心で溶かせるのだと。
けれど岡田明菜が帰国し、アキナセンターが街を照らしたその瞬間、ようやく分かった。
彼の心にいるのは岡田明菜だけ。ほかの誰かが入り込む余地など、最初からなかったのだ。
自分の努力なんて、ただの笑い話。
工藤花恋は深く息を吸い、彼の視線をまっすぐ受け止めた。悲しみも怒りも浮かばない、凪いだ目で。
「三浦央士。言いたいことは単純よ。あなたを自由にする。あなたが愛してる人のところへ行けばいい。……それと同時に、私自身も解放して」
三浦央士は唇の端を吊り上げた。駆け引きだとでも決めつけるように。
「工藤花恋、くだらない芝居はやめろ。離婚で俺を脅せると思うな」
彼は腰を折って、さっき投げていたスーツを拾い上げ、腕に掛ける。白い顔を一瞥し、苛立ちを隠しもしない。
「今のは聞かなかったことにしてやる。冷静になれ。よく考えろ。三浦家を出たら――お前は何者でもない」
吐き捨てると、彼は花恋を見もしないで踵を返し、大股で出ていった。
重いドアが閉まる音。
続いてエンジンがかかり、遠ざかり、やがて夜の静けさに溶けていく。
花恋は追わなかった。
ただその場に座り続けた。命のない彫像みたいに。
外が濃い闇から灰色へ変わるころ、ようやく固まった身体を動かす。
重い足を引きずり、荷物をまとめ始めた。
この家は広くて豪奢なのに、彼女の持ち物は驚くほど少ない。
小さめのスーツケース一つで、全部収まった。
弁護士に連絡し、離婚協議書を作らせて印刷する。
条件は簡単。財産分与は放棄。何も要らない。ただ、一刻も早く離婚したい。
すべて終えて、三年間暮らした家を最後に一度だけ見回し、振り返らずに出た。
ドアをそっと閉める。
マンションの前に差しかかった瞬間、スマホの着信音が耳を刺した。
「もしもし、工藤洸平さんのご家族の方ですか。江北警察署です。工藤洸平さんが故意傷害の疑いでこちらにおります。お手数ですがお越しいただけますか」
花恋の胸が、どんと沈んだ。指先から一気に血の気が引く。
洸平が警察署……?
工藤洸平は弟だ。血は繋がっていない。両親が引き取った子で、花恋より三歳下。
生まれつき体が弱く、先天性の心疾患を抱えていた。
両親が事故で亡くなってから、二人は寄り添って生きてきた。互いが互いのすべてだった。
路地裏でチンピラに絡まれたとき。
細い洸平が割れたレンガ片を拾い、必死に花恋の前に立った。目を真っ赤にして叫んだ。
「姉ちゃんに手ぇ出すな! 触ったら、俺が殺す!」
震える手で彼女の手を握り、歯を食いしばって言った。
「姉さんは、俺の唯一の家族だ。命より大事だ」
あのとき花恋は泣き崩れ、この血の繋がらない弟を、人生の唯一の光だと思った。
だからこそ、洸平の発作が悪化したとき――三浦央士と結婚しても未来はないと分かっていても、手術代のために首を縦に振った。
手術は成功し、洸平は回復した。努力して国内トップの大学にも入った。
けれど結婚のことで意地を張っているのか、大学に入ってから彼は一度も自分から連絡してこなかった。
会いに行っても、避けられた。
それでも洸平は冷静で筋の通った子だ。喧嘩なんてするはずがないのに。
考える暇もなく、花恋はタクシーを止め、警察署へ向かった。
警察署に駆け込むと、必死に視線を探して――すぐに、調停室の隅で洸平を見つけた。
だが、その光景に足が止まる。
久しぶりに見る弟は、清楚な顔立ちの若い女の子を抱き寄せ、低い声で慰めていた。
指先で彼女の涙をそっと拭い、眼差しは優しさで満ちている。
まるで、入口に立つ花恋の存在など、最初からないみたいに。
胸の奥が、理由もなくきゅっと痛んだ。
ふっと、目の前が揺れる。
記憶の中の頑なな少年も、あの日こうして彼女の涙を拭き、駄々をこねるように言った。
「姉ちゃんとしてじゃなくてさ……俺、姉ちゃんを嫁にする。俺が一生守る」
少年の顔が、目の前の青年と重なる。懐かしいのに、ひどく遠い。
花恋は息を整え、込み上げる苦さを飲み込み、当直の警察官に状況を訊ねた。
「工藤洸平さんのお姉さんですか。大した話じゃありませんよ。相手は夜市の屋台で、何人かのチンピラが彼の彼女に言葉で絡んだ。カッとなって、ビール瓶で相手の頭を割ったんです。怪我は軽い。ただ相手が告訴すると言い張ってましてね。家族も来ていて、かなり興奮してます」
花恋の心臓が握り潰されそうになった。さらに訊ねようとした、そのとき――。
調停室の反対側から、怒鳴り声が爆発する。
「このクソガキが! 俺のダチ殴りやがって! 今日は皮一枚じゃ済まさねぇぞ!」
体格のいい、顔に肉のついた男が勢いよく立ち上がり、洸平へ突進しようとする。
花恋の顔色がさっと白くなり、反射的に飛び出して洸平の前に立った。
「やめてください! 話し合いましょう!」
だが男は怒りのまま腕を振り、花恋を乱暴に突き飛ばした。
冷たいタイルに叩きつけられる。
掌がずるりと擦れ、一気に皮がめくれた。血が滲み、灰白の床を赤く染めていく。
痛いのは、掌より心だった。
洸平はすぐ背後にいたはずなのに。
花恋が倒れた瞬間、洸平はただその女の子をさらに強く背に庇い、優しく言った。
「大丈夫。俺がいる」
最初から最後まで、花恋を一度も見ない。
警察官たちが駆け寄り、男を取り押さえる。
混乱の中、花恋は刺すような痛みを堪え、床に手をつき、ゆっくり起き上がった。
血はまだ流れているのに、もう痛みの感覚が薄い。
花恋は保釈の手続きをし、治療費と示談金を立て替え、頭を下げ続け――相手もようやく和解に応じた。
その間、洸平はずっと花恋の隣には来ない。
女の子に寄り添い、囁くように励まし続けた。
花恋がやっていることは当然だとでも言うように、一度も助けようとしない。
すべてが終わり、花恋は疲れ切って洸平の前に立った。掌の傷はまだじわりと血が滲んでいる。
口を開こうとして――言葉が出ない。
女の子がようやく花恋に気づいたらしく、洸平の袖を引いて小声で訊ねた。
「洸平、この人……誰?」
洸平の視線が、ようやく花恋に落ちた。
かつて彼女だけを映していた瞳が、いまは冷たく、遠い。
