第3章
「……ああ、親戚だ」
工藤洸平はそこでいったん言葉を切り、それから付け足すように言った。
「別に、親しくない」
その一言一言が氷の錐みたいに、すでに穴だらけになっていた工藤花恋の心へ、容赦なく突き刺さった。
工藤花恋は警察署の外で、長いこと立ち尽くしていた。
気がつけば、工藤洸平はいつの間にかもういなくなっていて、傷口から流れ続ける血のせいで、目の前がくらくらする。
医師には言われていた。
彼女の病気には凝固障害がある。怪我をしたら危険だから、すぐに病院へ行くように――と。
花恋は真っ青な顔のまま、上着で傷口を応急的に押さえ、タクシーを拾った。病院で処置してもらうつもりだった。
けれど乗り込んで間もなく、スマホがけたたましく鳴り出す。
通話を取った瞬間、三浦央士の怒声が耳を打った。鼓膜がびりっと痺れるほどの勢いだった。
「工藤花恋! 俺たちの結婚をマスコミに流したのはお前か? 今、ネットじゃ明菜が浮気相手扱いで袋叩きだ! あいつはもう、精神的に限界まで追い込まれてる! 何でもいい、今すぐ火消ししろ! 明菜に何かあったら――絶対に許さないからな!」
花恋の指先が、スマホを握ったままぎゅっと強張る。
違う。自分は何もしていない。そう説明しようと眉を寄せた、そのときにはもう遅かった。
三浦央士は、彼女に一言も言い訳させないまま、冷たく通話を切っていた。
握る手に力がこもり、指先が白くなる。
次の瞬間、胸の奥を鋭い痛みがねじり上げ、息が詰まった。
――そうなのだ。
彼の中で自分は、そういう女なのだ。
愛している女を傷つけるためなら、どんな卑劣な手でも使う悪女。
「運転手さん……」
声はひどく掠れていた。今にも途切れそうなほど弱々しい。
「すみません、引き返してください。三浦グループ本社まで」
三浦グループのビルへ足を踏み入れた途端、四方八方から突き刺さる視線を、花恋は痛いほど感じた。
彼女は以前、ここでしばらく事務職として働いていた。
けれど三浦央士が、「三浦夫人が外で働く必要はない」と言って、辞めさせたのだ。
今向けられているのは、かつての同僚たちの視線だった。
好奇、軽蔑、面白がる気配。そのすべてが細い針になって、今にも崩れそうな彼女の自尊心をちくちくと刺してくる。
「へえ、あの人? そりゃ成り上がれるでしょ。男を引っかける顔してるし」
「絶対なんか裏でやってるよね。あの家柄で三浦社長と釣り合うわけないじゃん」
花恋は背筋をぴんと伸ばした。
耳に入る悪意ある囁きはすべて無視し、手にした離婚協議書を強く握りしめたまま、社長専用エレベーターへまっすぐ歩いていく。
最上階。
重厚な木の扉の前で、ノックしようと手を上げかけた、そのときだった。
室内から、三浦央士の声がかすかに漏れてくる。
「心配するな。もう広報には全力で対応させてる。声明もすぐ出すし、午後には俺自身が記者会見を開いて説明する。俺たちの間に、最初から他の誰かなんていない」
「央士……でも、私のせいだよ。私が帰ってこなければよかったの。あなたには奥さんがいるのに、私なんかが間に入って……やっぱり、アメリカに戻る……」
「ばかなこと言うな!」
三浦央士が言葉を遮った。焦ったように、けれどはっきりとした口調で。
「俺はあいつとは何でもない。俺の心にいるのは、最初からお前だけだ。お前が嫌なら――約束する。もう二度と、お前の前にあいつを出させない」
工藤花恋は、冷たいドアノブを握ったまま、小さく震えた。
全身の血が、その一瞬で凍りついたような気がした。
痛みが極まると、人は本当に麻痺するのかもしれない。
花恋はぐっと下唇を噛み、無理やり気持ちを静める。
そうして、扉を押し開けた。
執務室のソファには、二人が寄り添うように座っていた。
その光景が、花恋の目を容赦なく刺す。
三浦央士は眉をひそめる。
入ってきたのが彼女だとわかった瞬間、顔にあったやわらかさは一気に消え失せ、声まで氷みたいに冷たくなった。
「工藤花恋。よくここへ来られたな」
岡田明菜は彼のそばに立っていた。
目元を赤くして、いかにも傷ついたような顔をしている。花恋を見る視線には、申し訳なさがほんのわずかに滲んでいた。
けれどその奥には、隠しきれない優越感がある。
花恋は三浦央士の言葉には答えなかった。
そのまま中へ進み、背筋をまっすぐ伸ばしたまま、淡々と言う。
「三浦央士。そんなふうに大ごとにして弁明なんてしなくていい」
声は、異様なほど静かだった。
「この離婚協議書に署名して。そうすれば私たちは法律上、もう何の関係もない。岡田さんが責められる理由もなくなるわ」
そう言って、持ってきた書類を静かに机の上へ置く。
三浦央士の視線が、離婚協議書という文字に落ちた。
瞳がかすかに揺れる。だがそれも一瞬で、すぐに冷たい嘲笑へと変わった。
「工藤花恋、まだそんな真似を続けるつもりか? いったん引いて見せれば、俺が追ってくるとでも思ってるのか。俺がサインしたら、次はばあさんに泣きついて、そのあとマスコミにでも『内情』を流すつもりだろ」
「違う!」
花恋は視線を逸らさず、きっぱりと言い返した。
「そんなことしない。あなたの言うようなことは、何一つしない。だから署名して。今すぐ手続きできる」
「工藤さん……」
岡田明菜が、横からやわらかく口を挟む。
「どうかそんなふうにしないで。私は、あなたと央士さんの家庭を壊したいなんて、一度も――もし私が戻ってきたせいで」
「明菜、お前は関係ない」
三浦央士はすぐに彼女を制した。
花恋へ向ける目には、もはや冷え切った拒絶しかない。
彼は離婚協議書を手に取ると、隣のシュレッダーへ無造作に放り込んだ。
ぶうん、と機械音が鳴り、紙がのみ込まれていく。
その音に重なるように、三浦央士の声が低く、ぞっとするほど冷たく響いた。
「工藤花恋。最後に言っておく。俺の我慢にも限度がある」
「こんなくだらない駆け引きはやめろ。お前はお前のやるべきことだけやって、おとなしくしていろ」
花恋の心は、ゆっくり、ゆっくりと底へ沈んでいく。
怒りも、悲しみも、もう表情には出てこなかった。
ただ空っぽの目で、細かく裁断されていく離婚協議書を見つめるだけだった。
「……また印刷して、送るわ」
それだけをかろうじて吐き出し、彼女はこれ以上争う気力もなく、踵を返して出口へ向かう。
「待て」
三浦央士の硬い声が、背中に突き刺さった。
花恋は足を止める。だが、振り返らない。
三浦央士は机の引き出しから、あらかじめ用意していた別の書類を取り出し、机の端へ投げた。
「こっちにサインしろ」
花恋はゆっくりと振り返り、その書類を見る。
表紙には、太字でこう打たれていた。
【最近のネット上の虚偽流布に関する声明書および誓約書】
三浦央士は彼女を見下ろし、冷ややかに命じる。
「署名しろ。お前と俺の間に婚姻関係は一度も存在しなかったと声明するんだ。ネット上の話は全部、お前個人による捏造と誹謗中傷で、その責任はすべてお前が負う――そう書いてある」
工藤花恋は、その声明書をじっと見つめた。
指先が、手のひらの傷口へ深く食い込む。
ようやく止まりかけていた血が、またじわりと滲んだ。
包帯が赤く染まっていく。
けれど、そんな痛みなど、胸の中にあるものに比べれば何でもなかった。
岡田明菜の潔白と名誉のために。
彼は、ありとあらゆる泥も汚名も、全部自分にかぶせるつもりなのだ。
不意に、ひどい眩暈が襲ってきた。
視界がぐらりと揺れ、何度も暗くなる。
花恋は咄嗟にドア枠を掴み、崩れそうになる身体をどうにか支えた。
しばらくしてから、ようやく足を動かす。
引きずるような足取りで、彼女は再び、その机の前へ戻っていった。
