第5章 雨の中で跪かせられる罰
三浦央士は花恋の腕を掴むと、椅子から乱暴に引き剥がし、そのまま横へ叩きつけた。
「きゃっ――!」
工藤花恋の身体が書棚に激しくぶつかる。背中に鋭い痛みが走り、喉の奥に鉄の味がせり上がった。
三浦央士は床にうずくまる女を見下ろした。目には、氷のような冷たさしかない。
「それはお前が悪事に使うための道具だ。工藤花恋――お前の強欲さと底意地の悪さには反吐が出る」
花恋は胸元を押さえたまま、痛みで声も出せない。ただ、真っ赤に充血した目で、彼を睨みつけることしかできなかった。
――これが、自分が三年も愛した男。
目が曇っているだけじゃない。心まで、完全に見失っている。
その眼差しを受けても、三浦央士の怒りは鎮まるどころか、ますます勢いを増していく。
この女だ。
祖母に取り入って、無理やりこの家に入り込み、明菜の居場所を三年も奪った女。
その明菜が戻ってきた今になっても、おとなしく身を引こうとせず、次から次へと厄介ごとを持ち込んでくる。
「そんなにこの家で存在を主張したいなら――この家のしきたりを、身をもって思い知れ」
三浦央士は掃き出し窓の向こう、雨に煙る庭を指した。声はぞっとするほど冷たい。
「お前は祖母のおかげでこの家に入れたんだろう。なら、庭で跪け。祖母の部屋の方角に向かって、そこで頭を垂れていろ」
花恋ははっと顔を上げた。信じられないものを見るような目で彼を見つめる。
「……何を、言ってるの?」
「跪けと言ったんだ」
三浦央士の声は一切揺るがない。
「祖母が目を覚ますまでな。自分の強欲と悪辣さを反省しろ。そして夢の中ででも、祖母に許しを乞え。この出来損ないの孫嫁が」
花恋の全身がぶるりと震えた。爪が掌に食い込み、皮膚を裂きそうになる。
祖母が目を覚ますまで――?
家の者なら誰だって知っている。
祖母は少し前に脳卒中で倒れ、それ以来ずっと集中治療室で意識不明のまま。危篤通知も何度も出されていて、回復の見込みはほとんどない。
それなのに、目を覚ますまで跪けと言うのは。
つまり――ここで死ねと言っているのと同じだった。
「三浦央士……あなた、きっと後悔する……」
花恋の声は掠れていた。瞳の奥には、もう何も残っていない。
「本当に、後悔するから」
「俺が一番後悔してるのは、お前と結婚したことだ」
三浦央士はすぐに二人の護衛を呼びつけ、表情一つ変えずに命じた。
「庭へ連れて行け。俺の許可があるまで立たせるな。たとえ気を失っても、水をかけて起こせ。そのまま跪かせ続けろ」
花恋は抵抗しなかった。
絶対的な権力と、最初から決めつけられた偏見の前では。
どんな足掻きも、道化のひとり芝居でしかないと分かっていたから。
護衛に連れられ、別荘の庭の中央へ。
そこは、かつて花恋が一番好きだった場所だった。
自分の手で薔薇を植え、花が咲いたら央士とここでお茶を飲みたい――そんな、ささやかな夢を抱いていた場所。
けれど今は、薔薇はとっくに散り果て、地面には枯れ枝ばかりが転がっている。
次の瞬間、膝が冷たい石に叩きつけられた。
骨まで響くような激痛が、ずきんと全身を貫く。
花恋は奥歯を食いしばり、ひと言も漏らさず、背筋だけはまっすぐ伸ばしたまま跪いた。
やがて、冷たい雨がぽつ、ぽつと落ち始める。
薄い服はあっという間に濡れそぼり、肌に張りついた。
秋の雨は、骨の芯まで冷たかった。
白血病でただでさえ衰弱した花恋の身体は、風に吹かれるたび今にも倒れそうに揺れる。
雨水は髪を伝って襟元へ流れ込み、まだ癒え切らない傷口をなぞっていく。
まるで、氷の蛇が何匹も這い回っているみたいだった。
二階の書斎の大きな窓辺で、三浦央士は煙草を指に挟み、雨越しに庭の中央を見下ろしていた。
煙がたゆたい、その表情は読み取れない。
「三浦社長……」
秘書が横から、おそるおそる声をかける。
「雨、かなり強くなってきました。奥様……いえ、工藤さんはもともとお痩せですし、このままでは何か――」
三浦央士は鼻で笑い、灰を落とした。
「お痩せだって? 俺を嵌めるためなら、雪の中で一晩でも粘った女だぞ。どうせ今回も芝居だ。放っておけ」
そう言い捨てると、彼は背を向ける。声はどこまでも冷え切っていた。
「跪いたまま死のうが、自業自得だ」
庭の真ん中で、花恋の意識は少しずつ霞んでいった。
――三浦央士。
これが、あなたが私にくれた結末なの?
雨脚は、さらに強くなる。
庭の中央に跪いたまま、花恋の身体は血の流れそのものが凍っていくみたいに冷えていった。手も足も、感覚が遠のいていく。
昔の自分なら、この程度の雨はただの風邪で済んだかもしれない。
けれど今は違う。
白血病に蝕まれた身体は、湿った冷気に触れるだけで、骨の奥から軋むような痛みを何倍にも膨らませる。
花恋は強く下唇を噛み締めた。
じわりと滲んだ血の味が、錆びた鉄みたいに口内へ広がる。
視界がぐらつく。
世界が雨の膜の向こうで、ぐにゃりと歪んでいく。
もう限界かもしれない――そう思った、そのとき。
闇を切り裂くように、二本のヘッドライトがまっすぐ庭へ差し込んだ。
銀色のポルシェが、ゆっくりと敷地内へ滑り込んでくる。
停車。
ドアが開く。
花恋は顔を上げるまでもなかった。
鼻を刺すような、自己主張の強い香水の匂いだけで分かる。
自分の人生を滅茶苦茶にかき回した女――岡田明菜だ。
岡田明菜は片手に傘、もう片方に限定物のエルメス・バーキンを提げ、ゆったりとした足取りで花恋の前まで歩いてきた。
傘は明菜の頭上だけを守っている。
そのぶん花恋は、叩きつけるような雨にいっそう無防備に晒された。
残酷なまでに鮮明な対比だった。
ひとりは華やかな帰国エリート。
もうひとりは泥水の中で命をつなぐだけの妻。
「ふふっ」
明菜は、ずぶ濡れで膝をつく花恋を見下ろし、口元をつり上げた。
声には、隠しようのない優越感が滲んでいる。
「まあ。これ、三浦夫人じゃない。どうしたの? 今日はお庭で悲劇のヒロインごっこ?」
花恋は必死に顔を上げた。
雨が頬から首筋へ流れ落ち、冷たさに全身がびくりと震える。
「……失せて」
歯の隙間から、かろうじてそれだけ絞り出す。
明菜はまるで冗談でも聞いたかのように、くすりと笑った。
その声が、雨の夜に妙に甲高く響く。
「まだそんな口が利けるのね。央士の罰、足りなかったんじゃない?」
彼女はゆっくり身を屈め、花恋の耳元へ唇を寄せる。
二人にしか届かない声で、甘く囁いた。
「知ってる? 今日、昼間にオフィスで央士が私を抱きしめながら言ってたの。三年もあなたに三浦夫人の座を譲っていたこと、本気で後悔してるって。あなたの顔を見るだけで、吐き気がするんですって」
「黙って……!」
花恋の身体が小刻みに震える。
寒さのせいか、怒りのせいか、自分でも分からない。
明菜は立ち上がり、目の奥に毒のような光を宿した。
「何? 痛いところを突かれた?」
唇を歪めたまま、さらに言葉を重ねる。
「それとね、礼を言わなきゃ。おかげで一つ確信できたわ。央士の書斎のパスワードも、この家の重要なシステムのパスワードも――今でも全部、私の誕生日だった。つまりこの三年、あなたがどれだけ頑張ったって、この家であなたは影にすらなれてなかったってこと」
「……あなた……」
花恋は荒い息をつく。胸の激痛で、まともに呼吸すらできない。
「婚姻情報をマスコミに流したのも……あなたなんでしょ。私を陥れるために……」
「そうよ。それが何?」
明菜は否定すらしなかった。むしろ笑みはいっそう深くなる。
「でも、誰があなたの言葉なんて信じるの? 央士にとって、あなたはお金のためなら何でもする女。私は、彼が何より大事にしてる女。あなたを潰すなんて、蟻を踏み潰すより簡単なの」
そして勝者だけが浮かべられる侮蔑を、その顔いっぱいに滲ませたまま、花恋の真っ白な顔を見つめる。
「岡田明菜……! あの人たちに手を出したら……私は、死んでも許さない!」
