第6章 まだ芝居をしている
怒りが胸の奥で爆ぜ、限界まで酷使された身体がついに悲鳴を上げた。
「――っ、ぁ……!」
次の瞬間。
「ぶっ――」
工藤花恋の口から血が勢いよく噴き出し、岡田明菜のハイヒールにぱっと散った。
天地がぐらりと反転する。
耳を打つ雨音は、遠のいたかと思えば急に近づき、まるで別の世界から呼ばれているみたいだった。
工藤花恋の身体がふらりと揺れる。
もう支えきれない。
そのまま、どさりと後ろへ倒れ込んだ。
泥水が跳ね、水しぶきが散る。
岡田明菜はあからさまに顔をしかめ、一歩退いた。靴についた血を見下ろし、眉間に深い皺を寄せる。
「最悪」
バッグからティッシュを取り出し、靴の甲を乱暴に拭う。
それから、使い終えたハンカチを工藤花恋の上へぽいと投げ捨てた。
「死んだふりはやめて。そんな手、央士にも通じないんだから。私に効くわけないでしょ」
つま先で工藤花恋の脛を軽く蹴る。
けれど、地面に倒れたままの彼女はぴくりとも動かなかった。
岡田明菜は鼻で笑い、くるりと背を向けて去っていく。
雨は、なおも降り続いていた。
別荘一階の片隅。
ぼんやりと黄ばんだ灯りの下で、執事の鈴木がずっとカーテンの陰に身を潜めていた。
この家に仕えて、もう十数年。
三浦央士が幼い頃から知っているし、工藤花恋がこの家に嫁いできた日も、はっきり覚えている。
この三年、工藤花恋がどれだけ三浦央士に尽くしてきたか。
どれだけ祖母を大切にしてきたか。
その全部を、鈴木は見てきた。
人の心は、石じゃない。
岡田明菜がああまで奥様を踏みにじる姿。
その奥様が、雨の中で血を吐いて倒れる姿。
もう、見ていられなかった。
震える手でスマホを取り出し、119を押す。
「もしもし、救急ですか……ルミナ・ヴィラ8号館です。人が倒れて……血を、たくさん吐いて……お願いします、早く、早く来てください……!」
通話を切ったあとも、鈴木は外へ飛び出せなかった。
三浦央士から、誰であれ工藤花恋を助けるなときつく言い渡されている。逆らえばどうなるか、わからない。
だからただ、室内を落ち着きなく行ったり来たりしながら、両手を合わせることしかできなかった。
一秒でも早く救急車が来てくれるようにと、祈り続ける。
二階、寝室。
三浦央士はシャワーを浴び終え、バスローブ姿のまま浴室から出てきた。
苛立たしげに髪を拭きながら、頭から離れないのは、さっき書斎で見た工藤花恋の目だった。
絶望しているくせに、折れない目。
あの頑なさが、妙に胸につかえている。
「ちっ……!」
低く吐き捨て、タオルをソファに叩きつけた。
あの女はいつだってそうだ。
自分が悪いくせに、まるで傷つけられた側みたいな顔をする。
世界中が自分に借りでもあるみたいに。
昔だってそうだった。
あの哀れっぽい顔で祖母の情に取り入り、今度はまた同じ手で同情を買おうとしているだけだ。
三浦央士は酒棚の前へ行き、ウイスキーをグラスに注いだ。
そのまま一気にあおろうとした、そのとき。
机の上の内線電話が鳴った。
こんな時間に内線をよこすのは、使用人くらいしかいない。
眉をひそめたまま受話器を取り、ぶっきらぼうに言う。
「何だ」
受話器の向こうから、鈴木の慌てた声が返ってきた。
「若様……あの、奥様が……」
「今度は何だ」
三浦央士は冷たく嗤う。
「跪いていられなくなったのか? だったら這ってでもそこにいさせろ。俺の許可が出るまで、絶対に動かすな」
「違うんです、若様!」
鈴木の声は半ば泣いていた。
「さっき救急車が来て、奥様を運んでいきました……奥様、もう……もう危ないかもしれません。地面が血だらけで……」
三浦央士の手に、ぎり、と力がこもる。
指の節が白く浮いた。
一瞬だけ、心臓が拍を外した。
だが次の瞬間には、いつもの偏見がその揺らぎを塗りつぶしていた。
さっきまで書斎であれだけ口答えしていた女が、たかが少し跪いた程度でどうこうなるわけがない。
罰から逃げるための芝居だ。
どうせ、そうに決まっている。
「芝居も板についてきたな」
三浦央士の声音は氷のように冷たかった。
「救急車まで買収して付き合わせたってわけか。……大したもんだよ、工藤花恋」
「若様、違います、本当に……血が……」
「もういい!」
怒声が鈴木の言葉を叩き切る。
「鈴木、お前まで耄碌したのか? あの女に丸め込まれたか。こんなくだらないことで俺を煩わせるな」
そう吐き捨て、乱暴に通話を切った。
部屋に静寂が戻る。
三浦央士はグラスを掴み、そのままウイスキーを一気に流し込んだ。
けれど、胸の奥にわだかまるざわつきは消えない。
苛立ちのまま髪をかき上げ、足早に窓辺へ向かう。
勢いよくカーテンを開け放った。
外では相変わらず、雨が荒れ狂っていた。
庭の中央――そこにあるはずの影は、もうない。
街灯に照らされた水たまりだけが、冷たく鈍く光っている。
三浦央士はその空白をじっと見つめた。
瞳の奥で、黒い感情がゆらりと揺れる。
本当に、行ったのか。
「……ふん」
ごく小さな嗤いが漏れる。
だが次の瞬間、その目はまた冷え切っていた。
「工藤花恋。二度と戻ってくるな」
吐き捨てるようにそう言って、カーテンを乱暴に閉めた。
――
救急車のサイレンが、叩きつけるような豪雨の夜を鋭く引き裂く。
車内。
「血圧60/40、まだ下がります! 意識レベルなし、心拍も乱れてる!」
「急いで! アドレナリン1mg静注! 除細動、準備!」
工藤花恋は狭いストレッチャーの上に横たわっていた。
顔色は、紙のように白い。
ずぶ濡れの服はすでに切り開かれ、冷たい電極パッドが痩せた胸に貼られている。
電流が流れるたび、とうに限界を超えた身体がびくりと跳ね、また力なく落ちた。
反応はない。
口元には、凄惨な血の跡がなお生々しく残っていた。
命がこぼれ落ちていった証みたいに。
この嵐の夜。
誰も知らない。
今、三途の川のほとりをさまよっているこの女が、この街でもっとも権勢を持つ男の、名目上の妻であることを。
市立第一病院、救命救急センター。
「ご家族の方はいませんか! 患者さんの状態が非常に危険です、至急ご署名をお願いします!」
救急科主任の武田章夫が危篤通知書を手に、汗だくのまま処置室から飛び出してきた。
声を張り上げ、がらんとした廊下へ向かって叫ぶ。
だが、返事はない。
廊下には、誰ひとりいなかった。
出たばかりの検査結果は、目を疑うほど深刻だった。
重度の肺感染。
40度の高熱。
それ以上に異常だったのが血液データだ。
白血球は異常増加、血小板は著しく低い。
典型的な白血病末期の所見。
しかも雨に打たれ、身体を冷やしたことで重い合併症まで引き起こしている。
多臓器不全の影が、確実に彼女へ覆いかぶさっていた。
「まだご主人にはつながらないのか?」
武田章夫は看護師長へ振り返る。
焦りの中に、抑えきれない怒気が混じっていた。
「3回かけました!」
看護師長は苛立ちを隠さず、受話器を受話台へ荒く戻す。
「1回目は出ませんでした。2回目はつながったのに、こちらが名乗る前に切られて。3回目は――」
唇を噛み、憤然と続けた。
「ご主人が、『工藤花恋に伝えろ、はした金のために病院まで巻き込んで芝居するな』って。それで、そのまま番号をブロックされました」
