第2章

林田朔夜は相馬晴から視線を外し、駐車場へ向かった。

相馬晴はその場に凍りつく。顔色が青くなったり白くなったりして、歪んだ。

林田朔夜の言葉は平手打ちみたいに頬を叩き、背を向けた彼女の後ろ姿を見つめる相馬晴の表情は、みるみる醜くねじれていく。

周囲のスタッフは忙しいふりをしているが、視線だけが何度もこちらへ滑った。

相馬晴は大きく息を吸い、無理やり表情を整える。そして藤原承弦を探そうと振り返った――その瞬間、入口に立つ彼の姿が目に入った。

顔色は、ぞっとするほど陰っている。

藤原承弦は、彼女の言った一言一言を、はっきり聞いていた。

『私、汚いのは嫌』……

心臓を何かにぎゅっと掴まれたみたいに痛む。茫然とした顔の奥に、自分でも気づかない焦りが混じった。

林田朔夜が、そんなことを言うだと?

三年前の雨の夜が脳裏に浮かぶ。戸惑いながらも、震える指で彼のベルトを外した朔夜。あのとき、彼女は言った。

「藤原さん……言うこと、聞きます」

三年間、朔夜は確かに従ってきた。結婚ごときで離れる? ありえない。

求めれば応じ、彼の数々の色沙汰にも怒らない。いつも目を伏せ、ウサギみたいに従順だった。

そのウサギが――噛みついてきた?

藤原承弦は胸の怒りを抑えきれず、大股で追いかける。

駐車場。林田朔夜が車のドアを引いた、その瞬間。

藤原承弦が手を突き出し、ドアを押さえた。鈍い音が響く。

林田朔夜が見上げる。驚きも、媚びもない。静かな目。

「藤原社長、まだ何か?」

「林田朔夜。何を拗ねてる」

藤原承弦が睨む。

「契約満了で更新しない? 誰が一方的に決めていいと言った」

「三年って、最初から――」

林田朔夜が押し返そうとするが、藤原承弦は離さない。それどころか顔を寄せ、鼻先が触れそうな距離まで近づく。

「金が足りない? それとも最近、来てやらなかったからか?」

見下すような、いつもの施しの口調。

林田朔夜は固まった。胸の奥が刺される。何度も心が揺れたその顔が、今はひどく遠い。

沈黙を見て、藤原承弦の声がさらに冷える。

「駆け引きはやめろ。欲しい額を言え」

それでも朔夜は黙ったままだった。

その沈黙に、藤原承弦の心臓が珍しく跳ね損ねる。

この感覚は――求婚を断られたとき以来だ。

彼は即座に否定する。

林田朔夜は替え玉だ。伊月と同じなわけがない。

今の態度は、ただ条件が足りないだけ。そう、条件が。

林田朔夜は藤原承弦の軽蔑を見つめ、ふっと笑った。

ようやく醒めた自分が、ありがたい。

三年の間、藤原承弦の甘さを何度も見てきた。だから、どこかで期待してしまったのだ――彼の深情の欠片でも、「林田朔夜」に向けられているんじゃないかと。

馬鹿だった。

「藤原承弦」

声は小さいのに、妙に澄んでいた。

「もう、うんざり」

藤原承弦が息を呑む。

「私は、あなたの不倫相手にはならない」

一語ずつ、冷静に刻む。

「父が天で見ているなら、既婚者だと分かっていながら関係を持つなんて……絶対に許さない」

駐車場が静まり返った。

藤原承弦は朔夜の目を見る。そこには拗ねも計算もない。あるのは、静かな決意だけ。

――本気で去るつもりだ。

「婚約は……取引にすぎない」

藤原承弦の弁解が口をついた。

自分でも驚く。それでも唇を結び直し、続ける。

「俺は、お前を不倫相手だと思ったことはない」

初めての譲歩。声は相変わらず硬いが。

林田朔夜は薄く笑った。淡い嘲りを含んだ笑みで。

「藤原社長。街中で噂になってるのに、忘れたんですか?」

「私が何も知らない女だとでも?」

藤原承弦の顔色が沈みきる。

一歩引き、目の前の女を見直す。

「林田朔夜」

口角を上げた笑みは冷たい。

「まさか俺が、お前じゃなきゃ駄目だとでも?」

嘲笑が滲む。

「俺のベッドに入りたい女はいくらでもいる。ただ、替えるのが面倒だっただけだ」

藤原承弦の誇りは高い。さっきの譲歩で限界だった。

なら、いい。替え玉なら、また探せばいい。

林田朔夜の胸がちくりと痛む。でも、それだけ。

彼女は頷く。

「知ってます」

「いいだろ」

藤原承弦は冷たく言い捨て、背を向けた。

林田朔夜はその背中に言う。

「仕事はきちんと引き継ぎます。ご迷惑は――」

藤原承弦は振り返らない。

「周防とやれ」

林田朔夜の指先がわずかに丸まる。

「……承知しました」

週末、林田朔夜は公寓を出た。

新しく借りた部屋は旧市街の1LDK。狭いが日当たりはいい。丸一日かけて荷物を片づけ、ようやく落ち着く。

トイレに座って見上げた見知らぬ天井。それでも頭の中は引き継ぎの段取りでいっぱいだった。

大抵は何とかなる。けれど海宮インターナショナルとの『星空』AI無人機プロジェクトだけは――。

藤原グループが初めて他の国際企業と深く組むAI案件で、投資額も巨大。彼女は中核責任者として、来月には資金調達のプレゼンが控えている。

林田朔夜はこめかみを揉んだ。絶対にミスは許されない。

ティッシュを取ろうとして、未開封のナプキンが視界に入る。

林田朔夜がふと固まった。

最後の生理……いつ?

ここ数カ月、残業にプロジェクトに、藤原承弦の気まぐれな夜に。周期が乱れていたことすら気にしていなかった。

でも思い返すと――

確かに、長い。

心臓が少し早くなる。

ありえない。

藤原承弦とはずっと避妊していた。

ただ一度だけ、三カ月前。彼が酔っていて、荒っぽくて――。

胸のざわつきを押さえつけ、林田朔夜は無理やり眠った。

翌朝、マスクと帽子で顔を隠し、個人病院へ向かった。

結果は早い。

医師が穏やかに笑う。

「おめでとうございます。妊娠しています。八週くらいですね」

林田朔夜は検査票を見て目を見開き、その場に立ち尽くした。

――藤原承弦の子を?

やっと離れる決心がついた、その時に?

どうやって診察室を出たのか覚えていない。

廊下の椅子に座り、朔夜はそっと下腹部に手を当てた。

まだ平らで、何も分からない。

でも、命がある。

存在してはいけない命が。

林田朔夜は目を閉じる。

そして開いたとき、瞳に残ったのは静かな決断だけだった。

彼女は立ち上がり、診察室へ戻る。声は小さいのに、はっきりしていた。

「先生。手術の予約をお願いします」

「この子は……産みません」

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