第1章
「出て行け! おじいさまが生前あれほど可愛がってくださったのに、葬儀にすら顔を出さないなんてどういうつもりだ! 鈴木家にお前みたいな娘はいない!」
公墓の傍ら。鈴木梨央は泥だらけのまま、墓前に跪いていた。表情は感情を失ったみたいに硬く、ただ無機質だ。
つい三十分前まで、彼女は研究室で――祖父を救う薬を作っていた。あと一歩で形になりそうだったのに、「おじいさまが亡くなった。鈴木家が葬儀を執り行っている」と告げられた。
着替える暇もない。駆けつけた先で待っていたのは、鈴木家一同の嘲笑だけだった。
養父の鈴木明哲が、見下すように言い放つ。
「鈴木家が十八年もお前を養ってやった。もう十分だ。朱音が戻った以上、お前がここにいる意味はない。実の親を探して出て行け」
ざわざわとした囁きが、耳にまとわりつく。
「鈴木家の評判最悪の養女って、あの子? 子どもの頃から反抗的で、喧嘩ばかりって」
「善意で引き取ったのにさ。おじいさまが亡くなった途端これだよ。葬儀にも来ないなんて」
「実の親は田舎で流れ者らしいよ。飯も食えないほど貧乏だって。帰りたくないのも分かるわ」
梨央は雑音を切り捨て、墓碑の写真だけを見つめていた。
写真の老人は慈しむように笑っている。鈴木家の中で、唯一、梨央に優しかった人。
三か月前、鈴木家の「本当の娘」が戻ってきた。
鈴木朱音は人混みの中で黒い喪服を纏い、いっそうか弱く可憐に見える。目尻は赤く、時折ハンカチで涙を拭うたび、周囲の奥方たちが口々に慰めた。
「朱音ちゃん、あまり悲しまないで。おじいさまもそんな顔、望んでないわ」
「そうよ。あんな子のことで身体を壊すなんて、割に合わないわ」
朱音は首を振り、弱々しい声で言う。
「お姉さんを責めたりしません……だって、お姉さんは鈴木家の血を引いていないんですから……」
養母の村田良美が堪え切れず、梨央の前へ出て腕を乱暴に掴んだ。
「いつまで跪いてるの! さっさと出て行きなさい!」
引きずられて身体がぐらついても、梨央は頑として膝をついたまま、視線を墓碑から外さない。
「おじいさまに頭を下げたら、出て行きます」
「おじいさま?」良美が鼻で笑う。「朱音のおじいさまよ。あなたに関係あるの?」
鈴木明哲がスーツの内ポケットから銀行カードを取り出し、足元へ投げ捨てた。
「金が欲しいんだろう? 2000万だ。これを持って行け。鈴木家とお前は今日で縁を切る!」
梨央は一瞥しただけで、拾わない。
――この数年、鈴木家のために表も裏も動き回り、どれだけ尽くした? その対価がたった2000万。笑わせる。
「お姉さんを責めないで。私が話すわ」
朱音が梨央の前に立ち、庇うふりをしてから身を寄せる。二人にしか聞こえない声で囁いた。
「ねえ、お姉さん。悠人お兄ちゃん、昨日私にプロポーズしたの」
左手薬指のダイヤを見せつけ、得意げに笑う。
「本当ならあなたが婚約するはずだったのに。田舎から来た野良猫みたいな子じゃ、無理よね?」
梨央は冷えた目で見返した。
「言い終わった? 終わったならどいて。おじいさまに頭を下げる邪魔」
朱音が言葉を失う。
梨央は墓碑へ向き直り、額が痛むほど強く一度、叩きつけるように頭を下げた。
――もう、これで終わりだ。十数年の恩は返した。
立ち上がり、膝の泥を払う。足元のカードを指して、明哲と良美を見た。
「2000万はいりません」
良美が顎を上げる。
「少ないって? やっぱり田舎者は強欲ね」
梨央は薄く嗤った。
「そのお金は、脳みそに栄養でも買ってきたら?」
「鈴木梨央! 何を言って――!」良美は顔を真っ赤にして目を剥く。
「失礼。私の姓は米崎よ」
米崎梨央は朱音へ幽く視線を向け、冷笑した。
「それと――あんなガラクタが、あんたみたいな尻の軽い女と婚約するなら、お似合いね」
「……っ」
朱音は顔を紅潮させたが、人前で爆発するわけにもいかず、泣きそうな目で両親を見た。
明哲が眉をひそめる。
「米崎梨央。鈴木家を出るのが悔しいのは分かるが、礼儀を失うな。教育はどこへ行った?」
「教育? 鈴木家にそんなものが?」
他人は知らない。梨央は知り尽くしている。鈴木家は表面だけ豪奢で、中身は蛇と鼠の巣だ。彼女が陰で手を回していなければ、とっくに上流の輪から弾かれていた。
梨央は醜い顔ぶれに背を向け、服の泥を払う。最後に墓碑へ目をやり、踵を返した。
公墓の入口。ぼろぼろのトラクターが停まり、車体は泥はねだらけ、荷台には肥料袋が積まれている。
運転席から降りてきたのは、中年の男。青い作業着に泥まみれの長靴。
梨央を見て、朴訥と笑った。
「梨央ちゃんだな? 俺は叔父の米崎遠山だ。お父さんとお母さんに頼まれて迎えに来た」
梨央は頷く。
「叔父さん、よろしく」
それを良美が目撃し、露骨に蔑んだ。
「こんなボロトラクター、農場でも見たことないわ。米崎家って本当に田舎者ね」
朱音が口元を押さえてくすりと笑い、わざとらしく言う。
「お母さん、そんな言い方……梨央が傷つくよ?」
遠山は運転席の後ろから、膨らんだドンゴロスをいくつか取り出した。
「梨央ちゃん。家で作ったジャガイモだ。育ての親御さんに渡してくれって――十八年も面倒見てもらった礼だって……」
明哲へ差し出すと、彼は眉をひそめて一歩退いた。
「いらん」
良美はさらに吐き捨てる。
「そんなガラクタ、鈴木家に持ち込まないで! 汚い!」
遠山の手が空中で止まり、笑顔が凍りつく。
梨央が歩み寄り、ドンゴロスを受け取った。
「叔父さん。要らないならそれでいい」
彼女はトラクターをちらりと見て、軽く眉を上げる。
――普通のトラクターじゃない。見間違いでなければ、ドイツ製の手作りヴィンテージ農耕機。世界限定10台。
外見は素朴でも、値段は鈴木家のガレージに並ぶベントレー10台分はくだらない。
鈴木家は目が節穴で、価値が分からないだけ。
……それにしても、米崎家は貧しいはずじゃ? なぜこんなものを。
ドンゴロスのジャガイモも、明らかに高級な改良種で、一般農家が作れる代物じゃない。
疑問の答えは――米崎家に行けば分かる。
「叔父さん、行こう」
ドンゴロスを荷台に戻し、梨央は助手席へ跳び乗った。
「おう」
遠山も乗り込み、トラクターは泥を跳ね上げながら走り出した。
