第3章
米崎梨央は顔を上げて、彼を見た。
「新村家?」あの写真が脳裏をよぎり、思わず口をつく。「新村慎之介……?」
「知ってんのか?」光が目を丸くする。「新村家は表向きは国際貿易だけど、裏じゃアジア最大の地下生物実験施設を握ってる。この毒素は奴らが3年前に開発して、売る相手も選んでる。俺がシステムに潜って調べたら、3か月前に実験室から一ロット、誰かが買ってる」
「買ったのは誰?」
「そこが抜けない。匿名アカウントだ」光は梨央を見据えた。「なあ、俺が新村家、襲ってくるか? 取引記録ひっくり返せば、絶対何か出る」
米崎梨央は数秒黙り、首を横に振った。
「その必要はないわ。私がやる。あなたは手を出さないで」
身分はまだ表に出せない。下手に騒げば藪をつついて蛇を出す。それに――母に、新村家との縁談を受けると返事をしたばかりだ。ここで余計な火種は作れない。
「姉貴が?」光は目を見開く。「新村慎之介がどれだけ危ないか分かってんのか? 噂じゃ、18歳で人を殺してる。25歳で新村家を継いで、3年で敵を全部掃除したって。そんなのに喧嘩売ったら、怖くねえのかよ……」
「何が怖いの?」梨央がちらりと目をやる。「もっと危ない連中、相手にしたことないとでも思ってる?」
光は言葉を失った。――そうだった。米崎梨央がどんな場数を踏んできたと思ってる。
かつて単身で軍の施設に潜って資料を抜き、平然と生還した女だ。
「……分かったよ」光は溜息をつく。「で、どうすんだ」
「私は戻る」梨央は淡々と命じる。「それと、忍び装束を一着用意して」
「忍び装束? 何に使うんだよ」光が好奇心を抑えきれず訊く。
梨央は答えない。
光は彼女の横顔を見て、はっとしたように目を見張った。
「おい、まさか……お前――」
「黙って。言ったとおりにして」
*
その頃、新村家。
新村慎之介は執務机に腰を下ろし、手元の書類に目を通していた。
深灰のルームウェア。襟元はわずかに開き、鎖骨の線が覗く。気怠げで、どこか色気を帯びた佇まい。
「若様」扉口に控えていた執事が、恭しく報告する。「米崎家より伝言がございました。縁談を希望しており、お時間のある折に先方のご息女と一度お会いしていただきたいとのことです」
慎之介の指が、ぴたりと止まる。ゆっくり顔を上げた。
「米崎家?」目を細める。「どこの米崎だ」
「お忘れですか。かつて極道の世界で名を馳せ、のちに足を洗って……今は田舎に引っ込んでいる米崎琥太郎の一族でございます」執事が念を押す。
新村慎之介は数秒沈黙した。米崎家を知らないわけがない。ただ、十数年も表舞台から消えていたはずだ。いまさらなぜ、縁談など。
「断れ」慎之介は興味なさげに視線を落とし、書類へ戻る。
「かしこまりました。すぐ返答いたします」
執事が踵を返した、そのとき。
階下からどよめきが起きた。ばたばたと足音が走り、空気が一気にざわつく。
慎之介が眉を寄せる。
「何だ」
答える間もなく、警護の男が血相を変えて駆け上がってくる。
「若様! 侵入者です!」
慎之介は立ち上がり、窓辺へ。眼下では、数人の護衛が黒い影を追っていた。
影は闇の中をするりと滑り、ひらりと身を翻す。屈強な男たちが、まるで追いつけない。
細く、しなやかで、やけに速い。女だ。
慎之介は目を細めた。
「……どこへ向かった」
「金庫の方角かと!」
「警報を――」
「その必要はない」
慎之介は背を向け、階段へ向かった。
新村家の金庫に踏み込む度胸。どんな顔をしているのか――見てみたい。
金庫は本邸の地下1階。警備は瑞士の金庫並みだ。
到着したとき、入口を固めていた護衛が四人、床に転がっていた。うめき声が、低く漏れる。
金庫内は荒れている。鉄製キャビネットはいくつもこじ開けられ、書類が散乱していた。
そして、庭の中央。
黒装束の女が、護衛の一人と対峙していた。
黒のボディスーツ。顔には半面のマスクで、口元から下だけが露わになっている。
顎のラインはすっと通り、唇は薄く艶めく。冷たい気配だけが、研ぎ澄まされていた。
相手の護衛は身長190の巨漢、元フランス軍の格闘教官。それが、じり、じりと後退している。
慎之介は門枠にもたれ、しばらく面白そうに眺めてから言った。
「下がれ」
護衛が一瞬固まり、無言で身を引く。
黒い忍者服の女が振り向く。澄んだ瞳が闇を切り裂くように光った。
慎之介は女を値踏みするように見て、淡々と訊く。
「誰だ」
女は答えない。わずかに目を細め――次の瞬間。
ひゅっ、と影が跳ねた。一直線に入口へ突っ込んでくる。
慎之介は身をひねって初撃を外し、反転して手首を取りにいく。
だが女は小柄な体をするりと滑らせ、慎之介の脇下を抜けると同時に、脚を払った。
狭い入口で、打撃と関節の応酬。数合で、慎之介の眉間に薄い皺が刻まれる。
――想像以上だ。
十八で裏の商売に手を突っ込み、殺し屋も腐るほど見てきた。だが、ここまで軽やかで、形に縛られない手は珍しい。簡単には崩せない。
黒い忍者服の女は長居する気がないのか、虚を突くように一手見せたあと、くるりと踵を返し、入口へ走った。
慎之介は追わない。
腰から拳銃を抜き、背へ狙いをつける。
ぱんっ――乾いた音。
わざと外した。脅しのつもりだった。だが女は怯みもしない。鉄柵に手をかけ、ひらりと跳ぶ。影はそのまま夜へ溶け、消えた。
慎之介は銃口を下ろした。
「若様!」遅れて護衛たちが駆けつけ、息を切らす。「追いますか!」
慎之介は答えず、足元を見た。
月明かりに、きらりと何かが光っている。
屈んで拾う。カフスボタン――鈴木家の紋。
鈴木家など、目立たない輸出入の小さな家に過ぎない。なぜ新村家へ潜り込み、しかもこんな腕を持つ者がいる。
慎之介は真っ黒な夜を見やり、口元だけを吊り上げた。
「……面白い」
*
米崎梨央が窓から部屋へ戻ったとき、外はすでに白み始めていた。
金庫を開けようとした、その瞬間。
こんこん、とノック。
「梨央? 起きてる?」清水恵美の声だった。
梨央は即座に金庫を隠し、平静を装う。
「起きてるよ。どうしたの?」
「朝ごはん作ったの。降りてくる?」
「うん、すぐ行く」
梨央は金庫をベッドの下へ押し込み、着替えながらふと腰元に手をやった。
……ない。
冷たいものが背筋を走る。
鈴木のお爺さんが生前くれた徽章。ずっと肌身離さず持っていたはずなのに。
――やった。新村家で動きが激しすぎた。落としたんだ。
