第4章
米崎梨央は、昨日あの男とやり合うのに時間をかけすぎたことを、少し後悔していた。
おそらくカフスボタンは、あいつに拾われた。
今ごろ、あの男は——彼女が取りに戻ってくるのを待っているのかもしれない。罠に、自分から飛び込んでくるのを。
梨央の目が、すっと冷える。
カフスボタンは必ず取り戻す。だが、身元は割れたくない。
そのとき、廊下のほうから、また控えめなノック音がした。
ドアが開き、清水恵美が顔を覗かせる。柔らかく慈しむような笑みを浮かべて。
「梨央、降りておいで。ご飯できたよ。顔色、ちょっと悪いけど……眠れなかった?」
「うん。帰ってきたばかりで、まだ慣れなくて」
米崎梨央は流れに任せて立ち上がり、何事もなかったように恵美のあとについて階段を下りた。
食卓に近づいた瞬間、目が吸い寄せられる。
パンに牛乳、野菜の盛り合わせ。いかにも素朴で、どこにでもある朝食——のはずだった。
けれど梨央には、一目で分かった。
この艶、この色、この張り。昨日見たジャガイモと同じだ。高級な改良品種、しかも最上級の素材。そこらの畑で気軽に育つ代物じゃない。
梨央は席につき、ナイフとフォークを手に取る。何気ないふりで、ブロッコリーを一欠片刺した。
「これも……お父さんとお母さんが作ったの?」
琥太郎はパンを切り分けながら、にこりと笑う。
「そうだよ。お父さんとお母さんで、手ぇかけて育てた」
顔色ひとつ変えない。妙な隙もない。
梨央も追及はせず、ひと口だけ食べた。
「うん。おいしい」
視線を落とした、その刹那。余光で、琥太郎と恵美がそっと息を吐くのが見えた。
恵美が隣の椅子から小箱を持ち上げ、宝物を差し出すみたいに梨央の前へ置く。目はきらきらと期待に満ちていた。
「ほら。開けてみて」
梨央はフォークを置き、蓋を上げた瞬間——反射光に、思わず目を細めた。
中に収まっていたのは、宝飾の一式。
帝王級の鸽血紅のルビーのネックレス。イヤリングとブレスレットも同系統のルビーを主石に据え、周囲をピンクダイヤと無色のダイヤで縁取っている。息が詰まるほど、豪奢。
イタリアの名匠・ジェルシーの遺作級。展示のみで販売されない、あの一点物のコレクション——梨央は、以前パンフレットで見たことがあった。
米崎家に、こんな「非売品」を引っ張ってくる力がある?
梨央の瞳が、わずかに縮む。
「……これは……」
「ああ、これ?」恵美がにこにこと言う。「昨日ね、うちの裏の農場の芝生を宴会に貸してほしいって人が来たの。すごくいい値段だったから、そのお金で梨央にプレゼントを買おうって思って。大したものじゃないよ。遊びで着けて」
——大したものじゃない。遊びで。
そんな言い方ができるのは、普通の家じゃない。
新村家みたいな連中と肩を並べる層でなければ、まず口にできない台詞だ。
梨央の疑念は、ますます濃くなる。
この十八年、彼女は一度も米崎家に帰っていない。いったい、この家の正体は何だ?
梨央は箱をそっと閉じた。
「でも、さすがに高すぎるよ。返したほうがいい。うちは畑やってるんだし、これをお金に替えたら……一年分の食べ物、買えるよね?」
「一年分?」恵美はあっさり笑って首を振る。「このセットなんて、うちのひと月分の出費くらいよ。気にしないの。お父さんとお母さんの気持ちだから。受け取って」
ひと月分——?
梨央の胸の奥が、かすかに揺れた。値段の分からないふりをして、首を傾げる。
「でも、これ……少なく見ても数万円はするでしょ? 田舎で自給自足なのに、そんなに出費があるの? それとも、ほかにも家があったり……?」
無邪気な好奇心、という顔。さらりと投げただけの質問。
恵美は笑みを崩さないまま箱を押し返し、ブレスレットを取って梨央の手首にはめた。左右から眺め、うっとりするほど満足した顔になる。
「うちは生粋の田舎者よ。でもね、これからは梨央に苦労させない。必要なものは、できる限り買ってあげる。ね?」
話題をまた、すっと逸らされた。
——母は気づいている。探りを入れられていると。
梨央は手首の重みを揺らし、これ以上は追わないことにした。
「ありがとう、お母さん。じゃあ、食べよう」
「うんうん、食べよ食べよ」
恵美と琥太郎は目を合わせ、示し合わせたみたいに梨央へ次々と取り分ける。
見た目は質素。それなのに栄養が濃く、香りも立つ。しゃきっと瑞々しくて、味が澄んでいた。
梨央は、素直に満たされていく自分を感じた。
食後、本当は新村家へ戻る手立て——カフスボタンを取り返す算段を練るつもりだった。
だが琥太郎と遠山が、やけに張り切って彼女を引っ張る。
「畑、見ていけよ!」「土いじりも悪くないぞ!」
案内された畑の隅。梨央は何気なく目を止めた。
スコップが十数本。どれも土がこびりついたまま、まとめて置かれている。
二、三人で使う数じゃない。
さらに、土のついた長靴も十数足。
梨央は表情を変えずに問う。
「お父さん。道具って洗わないの? スコップも靴も泥だらけだけど、使ったら替える感じ?」
その一言で、琥太郎と遠山が一瞬固まった。互いの顔を見て、言葉を探す。
遠山が慌てて笑い、朴訥にごまかす。
「いやぁ、畑仕事ってさ。どれが綺麗でどれが泥ついてるかなんて、気にしてられねえよ。適当に片づけてるだけだ」
「そうそう」琥太郎も乗っかる。
梨央は笑うだけで、何も言わない。
ひと通り歩き終えると、彼女は二階へ戻った。
その夜。
午前0時。壁の時計が、かちり、と二度鳴った。
米崎梨央が目を開け、窓を押し開ける。
闇の中から影がするりと滑り込み、音もなく部屋へ入ってきた。
月光を受けた銀髪が、やけに浮き立つ。神秘的な輪郭。
光が声を落とす。荒っぽいのに、どこか艶のある響き。
「新村慎之介が、姐さんのカフスボタンを拾ったのは確かだ。けどあれ、鈴木家のだろ? だから新村の連中、夜に新村家へ潜って資料を持ち出したのは鈴木家だって思い込んでる。すでに鈴木家を洗い始めた」
梨央は眉を寄せ、短く息を吐く。
予想通りだ。だが新村慎之介は、そう簡単に誤魔化せる相手じゃない。
資料庫を荒らし、めちゃくちゃにした。新村家が大人しく引き下がるはずがない。
「……どうする?」光が問う。「例の毒素を売り捌いた証拠、見つかったか?」
梨央は首を振った。
「ない。しばらく動かない」
光も頷き、軽く舌打ちするみたいに溜息を落とす。
「だよな。そうするしかねえ」
そして梨央を見る。
「じゃ、ほかに用がなきゃ俺は戻る」
「待って」
梨央が制した。目の奥に、別の色が差す。
今日一日で積み上がった、米崎家の不自然さ。疑いは霧じゃない。形を持ちはじめている。
米崎家はいま、どういう家なのか。娘を「取り戻した」のに、肝心の素性だけは徹底して隠す。
いったい何を隠している?
梨央は短く考え、命じた。
「人を回して。米崎家を徹底的に洗って。私がいなかった十八年の間に、この家が何者になってるのか……全部」
光の表情が引き締まる。自分の家を調べろ、という命令が出るのは、梨央が何かを嗅ぎつけた証拠だ。
光は即座に頷いた。
「了解。すぐ動く」
影が窓から消える。
梨央はその場でしばらく考え込み、ようやく立ち上がって窓を閉めた。
窓枠が、かたん、と静かに噛み合う。
その同じ瞬間。
一階の窓もまた——音もなく、そっと閉じられた。
米崎琥太郎は、さっき聞こえてきた会話のすべてを反芻しながら、暗がりで顔色を変えていた。読み取れない、底の見えない目で。
