第1章

冷たい検案台の上で、私は奇妙な感覚に囚われていた。これは紛れもなく私の身体だというのに、まるで他人の物語をスクリーン越しに眺めているようだ。鼻を突くホルマリンの匂いが、遺体安置室の空気を満たしている。かつては慣れ親しんだはずの病院の匂いが、今はひどく異質なものに感じられた。

私の亡骸を検めているのは小林先生。誠治の助手で、医大を出たばかりの若者だ。ゴム手袋に包まれた彼の手は、私の腕を裏返す際に微かに震えている。こういう仕事にはまだ不慣れなのだろう。

「身元は判明しましたか」

その声に、私の心臓が大きく跳ねた。――もし、まだ心臓というものがあるのなら。

誠治が部屋に入ってくる。私が選んであげた白衣を纏い、その表情はどこまでも厳粛でプロフェッショナルだ。彼は私の顔を覗き込む。けれど、私が焦がれてやまなかったその瞳に、目の前の亡骸が私だと気づいた光は微塵も宿らない。

それも当然か。車のタイヤに顔を轢き潰され、もはや原型を留めていないのだから。

「現在、照会中です、中村先生」小林先生が眼鏡を押し上げた。「ですが、いくつか奇妙な点が。被害者は交通事故を装われていますが、死の直前、計画的な薬物投与を受けていた形跡があります。少なくとも十時間以上、意識ははっきりしたままだったかと」

十時間。私は目を閉じ、あの長い悪夢を思い返す。

あの日、病院の駐車場でのことだった。一日のカウンセリング業務を終え、誠治の好物の味噌汁を作ろうと家路につくところだった。車の鍵をアスファルトに落とし、屈んで拾おうとした、その瞬間。太い腕が伸びてきて、私の口と鼻を荒々しく塞いだ。

「動くな」

声は低く静かだったが、誰なのかはっきりとわかった。

鋭い痛みが首筋を走り、針が突き立てられる。奇妙な痺れが全身に広がっていく。藻掻きたい。助けを呼びたい。なのに、身体は鉛のように重く、言うことを聞かない。ただ、意識だけが刃物のように冴え渡っていた。

彼らに運び込まれたのは、見知らぬ地下室だった。真っ白な壁。無機質な医療機器の数々。そこに、高橋理沙が立っていた。私がいつも素敵だと褒めていた白衣を身に纏い、見たこともない冷たい表情を浮かべて。

「記録開始」彼女はレコーダーに告げた。「被験者、女性、二十九歳。健康状態良好、既婚。神経遮断薬、初回投与量、五ミリリットル」

それからの十時間、私はずっと待っていた。誠治が、私の帰りが遅いことに気づくのを。彼が、私の携帯を鳴らすのを。彼が、私を探しに来てくれるのを。だから必死に意識を保ち、ひとつひとつの出来事を脳裏に焼き付けた。彼が助けに来てくれたとき、何があったのかを伝えるために。

けれど、彼は来なかった。

七回目の注射で心臓が不規則に跳ね始めたときでさえ、私は考えていた。明日の彼の誕生日のこと。そして、まだ伝えられていない、あの吉報のことを……。

「被害者の体内から特殊な薬物残留物が検出されました」小林先生が声を震わせる。「この薬物は、当院の神経科研究室でのみ使用されているものです。この殺害方法……あまりにも残忍です。まるで、何かの実験のようで」

誠治の表情に変化はない。私はただ、見ていた。彼は冷静に頷くだけ。その冷酷さに、私の心は急速に冷えていく。

これが、私の知っている誠治なの?

不意に携帯の着信音が響き、誠治はポケットからスマートフォンを取り出して画面を一瞥した。

「奥様からですか?」小林が何気なく尋ねる。彼も誠治が既婚者だと知っている。「いつも先生のこと、心配されてますもんね」

私は聞いた。誠治が「いや」とだけ答え、通話ボタンを押すのを。

「理沙か。どうした?」

理沙?私の意識が、深い海の底へと沈んでいく。私を殺した女が、今、私の夫に電話を?

誠治は少し離れた場所へ移動しながら、吐き捨てるように言った。

「綾音は面倒な女でね。あいつの執着には、もううんざりなんだ」

小林先生の動きが止まる。彼が自分の妻をそんなふうに言うとは、思いもしなかったのだろう。

「あの女」誠治の声は、さらに温度を失った。「俺の人生から、永遠に消えてほしいよ。いっそ、死んでくれればとさえ思う」

私の魂が、乾いた笑いを漏らした。中村誠治、あなたの願いは叶ったじゃない。あなたの妻の亡骸が、今あなたの目の前に横たわっている。それなのに、あなたときたら。

小林先生は気まずそうに俯き、作業を再開した。彼の手が私の腹部を調べたとき、ぴたりと止まった。

「中村先生」彼の声が、少しだけ上ずる。「……発見が。被害者の子宮内膜に顕著な変化が見られます。おそらく、妊娠していたかと。ごく初期の段階ですが」

妊娠。私はあの秘密を思い出した。誠治の誕生日に伝えようと計画していた、サプライズ。結婚して七年、私たちにようやく授かった命。

彼がその知らせを聞いたときの顔を、何度も想像した。驚きの後に込み上げてくる、あの歓喜の表情を。

「詳しく調べてくれ」誠治は通話を終え、相変わらず感情の読めない声で言った。

彼は知らない。彼が失ったのが、ただの「面倒な妻」だけではないことを。まだ見ぬ我が子でもあったことを。

再び、着信音が鳴る。今度は、画面に「田中美咲」と表示されていた。

「田中さん?」誠治は通話に出た。

「誠治くん?綾音、そっちにいる?昨日から出勤してなくて、心配で」受話器の向こうから、親友である美咲の焦った声が聞こえる。「最近すっごく機嫌が良さそうだったから。何か良いことでもあったのかなって。もしかして、二人から何か嬉しい報告があるんじゃないかって話してたの」

そうよ、美咲。良い知らせは、あった。ただ、それを告げる機会が、永遠に失われただけ。

「こっちは忙しいんだ。あいつの面倒まで見てられるか」誠治はぞんざいに答える。「またどこかで遊び歩いてるんだろ」

誠治は一晩中、検案室で身元不明の遺体と向き合ったが、それが自分の妻だとは最後まで気づかなかった。

翌朝。私がまだこの悪夢のような現実を咀嚼できずにいると、廊下から足音が聞こえてきた。誠治と小林先生が、徹夜明けの疲れた顔で部屋から出てくる。

「まだ身元は割れないが」誠治が小林先生に言った。「どうにも、見覚えがあるような気がするんだ」

そのとき、廊下にコツ、コツ、とハイヒールの音が響いた。

入口に現れたその姿を、私は見た。――高橋理沙。ベージュのパンツスーツに身を包み、艶やかな髪は非の打ち所なく後ろでまとめられている。

私の魂に、黒い怒りが潮のように満ちてくる。彼女だ。この女が、私を殺した。

「誠治さん」彼女の声は、蜜のように甘い。「昨夜は大変だったみたいね」

彼女はごく自然に誠治の隣に歩み寄り、その腕に自分の腕を絡めた。その親密な仕草は、死の苦しみよりも深く、私の心を抉った。

「理沙」誠治は彼女を見つめる。その瞳には、私が一度も見たことのない優しさが宿っていた。

小林先生は、そっとその場を離れていく。

叫びたい。駆け寄って、その偽りの仮面を剥がしてやりたい。誠治に告げたい。お前の妻を殺したのは、この女だと。けれど私にできるのは、ただ呆然と立ち尽くすことだけ。私を殺した女が、私の夫の隣で、睦まじく寄り添う姿を、ただ見ていることだけだった。

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