第2章
高橋理沙の手は常に誠治の腕に絡められ、二人は並んで病院の廊下を歩いていく。私はその後ろにふわりと浮かび、その光景をただ眺めていた。胸の奥で、諦めと嫉妬が黒い渦を巻く。
「お疲れのようね」高橋理沙がそっと囁いた。「昨夜は一晩中、あの亡骸の検案を?」
「ああ」誠治は頷く。「どこかで会ったことがあるような気がするんだが、どうしても思い出せない」
私の魂が、どくんと大きく脈打った。
「気のせいじゃないかしら」高橋理沙の声は、羽のように柔らかい。「病院には毎日たくさんの人が来るもの。どこかですれ違っただけかもしれないわ」
誠治は答えず、ただ物思いに耽るように歩みを続ける。
その横顔を見ていると、かつての私達の時間が蘇る。仕事で疲れた私を、誠治はいつもこうして迎えに来てくれた。彼の隣を歩くのが、私の定位置だった。あの頃の私は、この腕が、この優しさが、永遠に自分のものだと信じて疑わなかった。
いつからだろう。全てが変わってしまったのは。
結婚三年目あたりから、誠治は家に帰らなくなった。研究が佳境なのだと自分に言い聞かせた。会話が減り、距離が開き、彼は「仕事で疲れているんだ。そっとしておいてくれ」と繰り返すようになった。
そして、高橋理沙が現れた。若く、聡明で、美しい神経科の研究主任。医学界のエリートである二人の間には、私には立ち入れない世界があった。
目の前で親密そうに寄り添う二人を見て、ふと、これで良かったのかもしれない、とさえ思った。しがないカウンセラーの私より、彼女の方がずっと誠治に相応しい。私の死は、彼にとって本当に「解放」だったのかもしれない。
「待って、これを」高橋理沙が立ち止まり、バッグから洒落たデザインの魔法瓶を取り出した。「養生茶よ。徹夜は身体に悪いわ」
誠治の顔に、柔らかな笑みが浮かぶ。「君こそ、ちゃんと休め。午後は大事な研究会議だろう」
その甘やかすような口調は、まるで壊れ物を扱うように優しい。私が知らない、誠治の声だった。
「大丈夫」高橋理沙はつま先立ちになり、誠治の頬をそっと撫でる。「あなたがいれば、それでいいの」
私は顔を背けた。もう、見ていられなかった。
その時、廊下の向こうから切羽詰まった足音が響いた。分厚いカルテの束を抱えた研修医が、慌ててこちらへ走ってくる。
「危ない!」
誠治の声も間に合わず、研修医はバランスを崩して高橋理沙の腕に激突した。
ガシャン!――甲高い音を立てて魔法瓶が床に叩きつけられ、熱い茶が飛沫を上げた。
「も、申し訳ありません!高橋主任、本当に申し訳ありません!」研修医は恐怖で顔が蒼白になっている。
その瞬間、私は見た。高橋理沙の顔に浮かんだ、剥き出しの表情を。
あの怒り。あの冷酷さ。人を射殺さんばかりの、氷の眼差し。それは鋭利な刃のように、彼女の優しい仮面を突き破っていた。
忘れるはずがない。この眼差しを。
記憶の扉が、こじ開けられる。
薄暗い地下室。冷たい金属の椅子。私の四肢を縛るベルト。
『被験者を固定しろ。第一ラウンドの注射を始める』
暗闇から現れた高橋理沙。後ろには数人の白衣が付き従い、恭しく彼女を「主任」と呼んでいた。
私の目の前に立った彼女は、かつて美しいとさえ思った顔を、今は見たこともないほど冷たく歪めていた。
『彼女を消せ』その声は、機械のように無機質だった。『いかなる証拠も残すな』
『はい、主任』
背を向けた彼女が、最後に氷の眼差しで私を振り返る。
『あなたは、見てはならないものを見たのよ、中村綾音』
そうだ。高橋理沙が、私を殺した。
なのに、誠治は高橋理沙の手を取り、怪我はないかと心配そうに問いかけている。その光景に、私の心は引き裂かれそうだった。
もし誠治が真実を知ったら?私を殺した女を、彼はどうするのだろう。私を失った悲しみと、彼女を失う苦しみ、どちらが彼をより深く傷つけるのだろうか。
いっそ、このままの方がいいのかもしれない。私が「面倒な妻」のまま、彼の記憶から消え去る方が。そうすれば、彼は傷つかずに済む……。
「大丈夫よ」高橋理沙はすぐに完璧な微笑みを取り戻し、研修医に言った。「今度から気をつけてね」
「ご寛恕、感謝します!」研修医は、逃げるように走り去った。
誠治は眉をひそめていた。高橋理沙の表情の変化に気づいたようだったが、何も言わなかった。
「送ろうか」
「ううん、大丈夫」高橋理沙は首を振る。「あなたは急いで。私は先に帰るわ」
彼女はつま先立ちで誠治の頬に軽くキスをし、ハイヒールを鳴らして去っていく。
誠治は彼女を見送ると、遺体安置室へと踵を返した。私は、吸い寄せられるようにその後を追った。
「中村先生」小林先生が、疲れた顔で振り返る。「いくつか新しい発見が」
「聞こう」
「これです」小林先生が小さな証拠品袋を差し出す。中には緑色の破片がいくつか。「ご遺体の衣服から。何かの玉飾りかと。薬品による腐食が酷いですが」
誠治が袋を受け取る。その指先が微かに震えるのを、私は見た。
私の、ペンダント。
『綾音、誕生日おめでとう』
二十六歳の誕生日。誠治がくれた、蓮の花が彫られた緑玉のペンダント。
『わざわざ京都まで探しに行ったんだ。純潔と永遠の愛を意味する古玉らしい。一ヶ月分の給料、全部使った』
『無駄遣いよ』
『無駄じゃない。俺の妻は、最高のものを持つ価値がある』
誠治は、玉片をじっと見つめている。彼の眉間に、深い皺が刻まれていた。
「このヒビは……」彼の声が、震えた。
そうだ。結婚二年目に、私が不注意で床に落としてつけてしまったヒビ。大泣きした私を、彼は優しく抱きしめた。
『大丈夫。ヒビがあっても美しい。僕たちの愛みたいに、少し傷があっても、それでも完璧なんだ』
「中村先生?」
誠治ははっと我に返り、証拠品袋を机に置いた。「いや、何でもない。見間違えだ」
「それから、こちらを」小林先生がもう一つの袋を差し出す。「医療検査表の断片です。大部分が破損していますが、辛うじて文字が……」
誠治がそれを受け取る。不鮮明な文字を食い入るように見つめる彼の顔が、みるみる青ざめていった。
超音波検査表の断片。「妊娠初期」「六週」という文字。
「六週……」誠治の声は、ほとんど吐息のようだった。
そう、六週。私達の子は、六週間だけ生きて、私と一緒に死んだ。彼の誕生日に、この吉報を伝えるはずだった。
誠治の手が、固く握り締められる。その瞳に、確かな苦痛の色がよぎった。
どうして?どうしてあなたが苦しむの?私が消えてほしいと願っていたのなら、これは解放のはずでしょう?
その時、別のスタッフが報告書を手に、慌てて部屋に入ってきた。
「小林先生、最終の身元確認報告書です!」
小林先生は報告書を受け取ると、素早くそれに目を通した。
「結論は出たのか」誠治が問う。
「ご遺体の身元ですが」小林先生は報告書を読み上げた。
「――鈴木涼子、二十九歳、無職。そう確認されました」
……なに?
思考が、止まる。
違う。違う。この身体は、この亡骸は、間違いなく私、中村綾音なのに。
私は叫びたかった。けれど、その声は誰にも届かない。この冷たい部屋に、響くことはない。












