第1章 釈明
朝7時。谷口美桜は痛みの中で目を覚ました。ベッドに広がる血の染みが、目に刺さるほど赤い。
昨夜、山﨑蓮に狂ったように抱かれ、何度も求められた記憶が一気によみがえる。
目覚ましが鳴った瞬間、彼はさっと身体を離し、服を着替えると、そのまま出ていった。ひと言すら残さずに。
最後は彼女自身が救急へ電話し、病院に運ばれて――そこで初めて、流産したのだと知った。
スマホがぶるぶると震え続ける。広報部の小山誠子から、メッセージが何件も届いていた。
【谷口さん、山﨑社長がトレンド入りしてます! 下山さんと空港で撮られました!】
【広報部の電話が鳴りっぱなしです! いつ会社に来られますか?】
ニュースも立て続けに流れてくる。写真の中では、山﨑蓮が、つい先日夫を亡くしたばかりの下山柚奈をきつく抱きしめ、離れがたそうにしていた。
山﨑蓮の秘書――それが世間の目に映る、彼女の唯一の肩書きだ。
誰も知らない。彼女が本当は山﨑蓮の妻であることを。
そして、下山柚奈の事故死した夫が、山﨑蓮にとって戸籍上の兄だったことも。
谷口美桜は洗面台に手をついた。鏡に映る自分は、まるで幽霊みたいに青白い。
深く息を吸い、短く打ち返す。
【すぐ行きます】
子宮内容除去の処置を終えると、看護師が書類を差し出した。
「ご家族の方は? こちら、署名が必要です」
「自分で書きます」
「ご結婚されていますよね? マタニティ保険が使えれば、一部は戻りますよ」
谷口美桜のペン先がぴたりと止まる。
「はい。結婚して3年になります」
看護師は書類を受け取り、数分後、困った顔で戻ってきた。
「……ご結婚、されていますか? システム上では未婚になっていて、保険適用ができません」
「未婚……?」
谷口美桜は信じられないまま、看護師を見返した。
しばらくして、自分の声がひどく遠く聞こえた。
「……システムの不具合かもしれません。自費でお願いします」
病院を出た彼女は、その足で市役所へ向かった。
照会結果は病院と同じだった。
彼女の婚姻状況は、ずっと未婚。
山﨑蓮もまた、未婚のまま。
3年前、山﨑蓮が結婚証明書を渡してきたとき、金があれば役所に行かなくても済むのかと、ぼんやり感心したことがある。
けれど違った。
最初から最後まで、彼と自分は法の上では赤の他人だったのだ。
スマホは今も鳴り続けている。小山誠子のほうは、もう限界なのだろう。
谷口美桜は通りがかりのタクシーに飛び乗り、そのまま会社へ向かった。
会社の前は記者で埋め尽くされていた。彼女は脇の入口から中へ入る。
すれ違うたび、あらゆる視線がまとわりついた。哀れみ、好奇心、面白がる気配。
「谷口さん!」
小山誠子が駆け寄ってくる。
「山﨑社長に電話がつながりません。どうしましょう?」
「公式声明を出して。山﨑社長は、配偶者を亡くした知人を礼儀として出迎えた。あのハグは慰めの範囲内――そういう説明で」
歩きながら告げる声は、異様なほど静かだった。
「いくつか媒体にも声をかけて。30分後、私が記者会見を開く」
「でも、あの写真……」
「写っているのは抱き合ってる場面だけよ。それ以上は証明できない」
谷口美桜はエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押した。
「言った通りにして」
扉が閉まる。外の喧騒がすべて遮断された。
彼女は壁にもたれた。下腹部の痛みがじくじくと神経を刺す。
記者会見は驚くほど滞りなく終わった。
山﨑蓮と下山柚奈の関係を釈明するのは、これで17度目だ。慣れたものだった。
オフィスへ戻ると、アシスタントの太田美咲が後を追ってきて、声を潜めた。
「谷口さん、山﨑社長がさっき辞令にサインしました。下山さん、来週から入社して製品開発部長に就任するそうです」
書類をまとめていた谷口美桜の手が、ほんの一瞬だけ止まる。
そこは、もともと自分の席になるはずだった。
半年かけて追った案件。
契約書は、3日徹夜して自分でまとめたもの。
「……そう」
自分の口から出た声は、ひどく平坦だった。
「あと……」
太田美咲は言いにくそうに続ける。
「谷口さんが抱えてた案件もいくつか、下山さんに回されました。契約までは済んでるから、以後は下山さんに引き継がせればいいって」
谷口美桜は微笑んでうなずいた。目の奥がじわりと熱い。
ふいに思い出す。
昨夜、山﨑蓮が彼女を抱きながら、熱に浮かされた声で漏らした名前を。
「……柚奈」
あのときは聞き間違いだと思った。
でも、違った。
ずっと考えていたことがある。
もう、迷う理由はなかった。
谷口美桜は朝から用意していた退職願を持ち、そのまま人事部へ向かった。
「山﨑社長には報告済みですか?」
人事部長の葉山千春が、退職願を見て目を見開く。
谷口美桜は穏やかに言った。
「私の上司は社長ではありません。報告は不要です。通常の手続きで進めてください」
今朝、山﨑蓮が自ら下山柚奈の人事異動にサインしたことを思い出し、葉山千春は何か言いかけ、結局のみ込んだ。
「……分かりました。30日の引き継ぎ期間が終われば、退職できます」
「ありがとうございます」
背を向けて人事部を出て、オフィスへ戻った瞬間、谷口美桜はようやく長く息を吐いた。
むしろ感謝すべきかもしれない。
山﨑蓮が偽の結婚証明書を寄越したおかげで、離婚手続きすら要らないのだから。
あと30日。
それだけで、ここから完全に消えられる。
すべてを捨てて。
彼も含めて。
スマホが震えた。山﨑蓮からのメッセージだった。
【鎮痛剤1箱とホットミルクを持ってこい。金悦ホテル010号室】
簡潔で、命令口調で、当然のような文面。
続いて、下山柚奈からLIMEが届く。
【美桜、私、帰ってきたよ。蓮が歓迎してくれるの。新しく生まれ変わったお祝いだって。樹が亡くなったばかりなのに、こんなに派手にするのはよくないって思ったんだけど、蓮が新しい人生を始めるべきだって言ってくれて。美桜も祝福してくれるよね?】
谷口美桜は画面を見つめたまま、ふっと冷たく笑った。
祝福?
夫の遺骨もまだ冷めきらないうちに義弟を誘い始めたことを?
人の努力の結晶を、当然のように奪っていくことを?
それとも、流産した女に向かって、こんな胸の悪くなる誘いを送ってくることを?
彼女は車のキーをつかみ、エレベーターへ乗り込んだ。
鏡張りの扉に映る顔は、血の気がまるでない。
ただ目だけが、ぞっとするほど冴えていた。
金悦ホテル。
部屋の扉を開けると、山﨑蓮がソファに座り、その隣には下山柚奈がぴたりと寄り添っていた。
ほかには取引先の横山社長、それに山﨑グループの役員が数名。
「谷口さん、来た来た!」
横山社長がぱっと顔を輝かせる。
「ちょうどいい。山﨑社長が、下山さんは君の後任だって言ってたんだ。今後の案件は彼女が見るんだろう? なら、ほら。この一杯、下山さんに敬って、引き継ぎの挨拶といこうじゃないか」
下山柚奈は慌てて手を振った。
「横山社長、そんな。谷口さんほど有能な方の後なんて、とても……。私はただ、蓮の負担を少しでも軽くしたいだけなんです」
「柚奈、謙遜するな。君なら十分やれる」
山﨑蓮が口を開く。
そして谷口美桜へ向けた視線だけ、すっと冷えた。
「薬と牛乳は」
谷口美桜は無言でテーブルに置いた。
下山柚奈が申し訳なさそうな顔を作る。
「ごめんなさい。私、そこまでしなくていいって言ったのに。蓮が心配だからって、わざわざ薬を届けさせて……」
口ぶりには、抑えきれない優越感がにじんでいた。
山﨑蓮は牛乳のふたを開け、自分で温度を確かめると、ちょうどいいと判断してから彼女に渡す。
谷口美桜はその光景をじっと見つめた。
そのとき、ようやく分かった。
愛されているかどうかなんて、ひと目で知れる。
「薬を届けるのが遅れたんだ。罰は受けてもらわないとな」
横山社長が笑いながら酒を3杯注ぎ、目の前へ滑らせてきた。
「自分で3杯、どうだ?」
「申し訳ありません。薬を飲んでいるので、お酒は飲めません」
谷口美桜は静かに断る。
「飲み会があるって分かってたのに、わざわざ薬を飲んだの?」
下山柚奈が目を丸くして首をかしげる。
「美桜、もしかして私が戻ってきて案件を引き継ぐの、あまり歓迎してない? そういうことなら、私から蓮に――」
「こいつにそんな度胸はない」
山﨑蓮が遮った。
だが谷口美桜を見る目には、すでに露骨な警告が宿っている。
「たかが数杯で死にはしない。柚奈は今日は体調が悪いんだ。代わりに横山社長へ飲め」
谷口美桜はグラスの透明な液体を見つめた。
胃がきりきりと縮む。
やがて顔を上げる。口元には、まだ笑みがあった。
「昨夜、あなたと寝たとき、私が出血したのも……見ていたでしょう?」
