第28章 一線を越えてはいけない

山﨑蓮が家のドアを押し開けたのは、夜8時半を回った頃だった。

玄関に谷口美桜のスリッパはない。キッチンから、いつもの湯気の匂いも漂ってこない。

代わりに、甘ったるい香りが空気を満たしていた。下山柚奈の愛用する香水だ。濃厚で、他の気配をほとんど塗り潰してしまいそうなほどに。

「蓮、おかえり」

階段を下りてきた下山柚奈は、目尻まで笑っている。

「遅くなると思ってたから、デリバリー頼んだの。ちょうど届いたところ。早く食べよ?」

山﨑蓮はジャケットを脱ぎながら、何気ない口調を装って訊いた。

「……彼女は?」

下山柚奈の笑みが一瞬だけ引きつる。

「まだ帰ってないの。残業じゃないかな」...

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