第4章 捨て駒

会場は一瞬でざわめき立ち、フラッシュが狂ったように焚かれる。狙いは、谷口美桜の血の気の引いた顔だった。

今回の騒動における「男の当事者」――横山社長は最前列に座っていた。表情は動かず、腹の内が読めない。

山﨑蓮の視線が、横山社長と谷口美桜の間を行き来し、最後に横山社長へと据わる。

その視線に気づいた下山柚奈が、すかさず口を開いた。

「横山社長、お名前が出た以上、どうかご本人からご説明いただけますか」

横山社長は薄く笑い、眉を上げると、ゆっくり立ち上がった。

「えー……谷口さんとは……たしかに何度か、お会いしています」

どよめきが弾け、フラッシュの光で会場が白昼みたいに照り返す。

「ですが、いずれも通常の商談です」

横山社長はすぐさま付け足した。

「谷口さんは仕事熱心でね。時間が遅くなることもありましたが、ホテルで契約の細部を詰めただけですよ」

一拍置き、わざと曖昧に濁す。

「それ以上のことは……私の立場では言いづらい。ただ、ビジネスの世界では、受注のために多少の手段を使うことも珍しくないでしょう」

油を落とされた火みたいに、空気が一気に燃え上がる。

「つまり、谷口さんが契約のために不適切な手段を使ったことも認める、と?」

記者が間髪入れずに食い下がった。

「そうは言ってませんよ!」

横山社長は即座に否定する。だが、口元だけが意味深に歪んでいた。

「私は、谷口さんが真面目で敬業だと言っただけです」

――もう十分だ。

その二言で、世論は醗酵する。谷口美桜に「有罪」の札を貼るには足りすぎるほど。

山﨑蓮の顔色が完全に沈んだ。谷口美桜を見る眼差しは複雑だ。怒り、値踏み、疑念――それが絡み合っている。

谷口美桜はその場に立ち尽くし、スポットライトの下で裸に剥かれた気分だった。

横山社長に会った数回が、脳裏をよぎる。

一度目は、横山社長が急に時間を変更し、夜10時の約束になった。

一度目は、契約の最終段階で「1部だけ押印がない」と言われ、印鑑をホテルまで届けた。

もう一度は、打ち上げのあと。横山社長が飲みすぎて、運転代行を呼んで帰宅させた。

どれも、プロジェクトのためだった。

どれも、距離は守っていた。

なのに今、「普通の商談」は歪められ、深夜の密会にされ、寝室に這い上がった話にされる。

彼女はもう、何も持っていない。何も望んでいない。

それでも――なぜ放っておいてくれない。なぜこんな汚れを上塗りする。

「……警察を呼べ」

山﨑蓮が突然、冷え切った声で言った。

会場の音が、すっと消える。

「不正取引の疑いがある以上、関係者はご理解のうえ、捜査に協力していただきたい」

谷口美桜を見ながら、平坦で、底が見えない声。怖いほど落ち着いている。

谷口美桜は彼を見て、ふっと笑った。笑いながら、目の奥が熱くなっていく。

理解? 何を理解しろと言うのか。

公衆の面前で、自分を盾に差し出したことを?

下山柚奈と会社の評判を守るため、迷いなく自分を切り捨てたことを?

下山柚奈がタイミングよく山﨑蓮の袖を引いた。

「蓮……美桜が冤罪かもしれないよ。まずは社内で調査してからでも――」

「写真がある。横山社長の証言もある。証拠は揃ってる」

山﨑蓮は遮る。

「柚奈、会社には会社のルールがある。彼女のために口を挟むな」

そして会場へ向けて言い切った。

「警察の調査結果が出るまで、谷口美桜はすべての職務を停止する」

警備員に連れられて会場を出るとき、谷口美桜は一度だけ振り返った。

山﨑蓮は下山柚奈に顔を寄せ、低い声で宥めている。掌が、そっと彼女の背中を撫でた。優しさが、目に刺さるほどだった。

それでも彼は、谷口美桜を一度も見なかった。

警察の動きは早かった。数時間後には結論が出る。

「賄賂および未公開情報の漏えいの疑いにより、谷口美桜は引き続き捜査に協力する必要がある」

発表が出た途端、ネットは炎上した。

山﨑グループの株価は寄り付きから急落。だが山﨑蓮の対応は速く、その日の午後には緊急役員会が開かれた。

会議室は煙草の煙で曇り、役員たちが各々の正義を振りかざして怒鳴り合う。

「徹底的に切り離すべきだ。谷口美桜の行為は会社の信用を致命的に傷つけた」

「だが谷口さんは山﨑社長に長年仕えてきた。そこまで――」

山﨑蓮は席に座り、指先に煙草を挟んだまま、吸わない。

下山柚奈が軽く咳払いをした。

「蓮……谷口さんに、もう一度だけチャンスをあげられない?」

隅に立つ谷口美桜へ目を向け、ことさら誠実そうに言う。

「長年、功績がないわけじゃない。苦労もたくさんしてきたし」

警察は決定的な証拠を掴めていない。ただ、いくつかの「線」は出た。それだけで拘留するには十分だった。

下山柚奈が「しばらく待って」と引き留め、役員会に出席させた。助けるためではない。これは、彼女の裁判だ。

「俺は、彼女の人間性を信じている」

山﨑蓮がようやく口を開く。声が少し掠れ、谷口美桜の胸がきゅっと締まった。

次の瞬間、氷みたいな声が落ちた。

「だが世論は鎮めないといけない。そもそも騒ぎを起こしたのが彼女なら、責任も彼女が取るべきだ」

「確証がなかった場合は?」

誰かが問う。

山﨑蓮は長く黙った。長すぎて、谷口美桜は膝が笑いそうになる。

「……それでも、数日は拘留だ」

煙草を揉み消し、温度のない声で言う。

「世間への説明になる。嵐が過ぎれば、自然に出られる」

遠回しな言い方でも、全員が理解した。

谷口美桜は、捨て駒になった。

警察が来たとき、谷口美桜は静かに立っていた。氷の塊みたいに。

山﨑蓮は警察と手続きを進め、終始、彼女に視線を向けなかった。

下山柚奈が谷口美桜の前に立ち、諭すように言う。

「谷口さん、心配しないで。蓮が助ける方法を考えてくれるから。間違いを犯したとしても大丈夫。中でちゃんと説明して、山﨑グループの法務チームが量刑を軽くできるよう動くわ」

谷口美桜は顔を上げた。瞳は、皮肉で満ちていた。

連行される最後まで、彼女は一言も発しなかった。

言うべきことも、弁解も、何時間も繰り返した。

警察は疑いの目を崩さず、山﨑蓮まで「正直に話せ」と促した。

もう何を言っても無駄だ。

今の自分の立場は――盾であり、犠牲だ。

彼は、彼女が去ろうとしていることを知らない。だから遠慮なく、未来を踏み潰せる。

拘留所。

谷口美桜は狭い部屋に通された。

警察は事務的にいくつか質問をし、告げる。

「山﨑グループ側から一部の資金の動きを提出してもらいました。横山社長と、あなたの間に不自然な送金があります」

「……送金?」

谷口美桜は言葉を失った。

「横山社長の秘書の個人口座から、あなたに20万円。摘要は『案件謝礼金』です」

体の芯が、すうっと冷える。

20万円なんて、受け取っていない。

なら――誰かが、彼女の身分情報で彼女の知らない口座を作ったのだ。

そんなことができるのは、山﨑蓮しかいない。

彼は彼女の個人情報をすべて知っている。銀行口座の暗証番号まで。

「弁護士に会わせてください」

谷口美桜は言った。

「山﨑社長が弁護士は手配しています」

警察は少し迷い、続けた。

「ただ、社長からは『捜査に協力するように』と」

要求――。

谷口美桜は目を閉じた。

これが、山﨑蓮の「信じている」だ。

信じるから、ここに放り込む。

信じるから、協力を求める。

信じるから、彼女の人生で世論を沈める。

「もし協力しなかったら?」

彼女は小さく尋ねた。

警察は溜息をつき、同情するように言う。

「谷口さん……山﨑グループの法務チームは強い。非協力なら、もっと悪い結果になるかもしれません」

――選べない、ということだ。

供述調書に署名するとき、手が震えた。

警察は出ていく前に、最後に一言だけ残した。

「山﨑社長から伝言です。外のことは処理するから、怖がるな、と」

谷口美桜は、涙が出るほど笑った。

怖がるな?

彼女が今いちばん怖いのは――他でもない、彼なのに。

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