第1章 彼女は人を殺した、死に値する極悪人だ
「このクズ女が! 今日こそ智也の墓に一緒に埋めてやる!」
耳をつんざく怒号が飛んだ瞬間、江森美鈴の身体は蹴り飛ばされ、どん、と机の脚に叩きつけられた。
反射的に下腹をかばい、痛みをこらえて顔を上げる。
「わ、私は自分を守るために新谷智也を……裁判所だって認めたんです。正当防衛で無罪になった。あなたたちに、こんなふうに傷つける権利なんて――」
新谷夫人は泣きじゃくる新谷理子を抱きしめたまま、江森美鈴に唾を吐きかけた。
「ぺっ! 新谷家が何も知らないとでも? お前を弁護したあのろくでなしの弁護士、江森家からいくらもらったんだか。……それとも、金じゃ足りなくて、その汚い身体でも差し出したか、このクソ女!
法律が新谷家に正義をくれないなら、今日はこの命を賭けてでもお前と刺し違えてやる!」
血走った目のまま、新谷夫人はナイフを掴み、江森美鈴へ襲いかかった。
「――バン!」
扉が蹴り破られる。
飛びかかっていた新谷夫人の動きが、ぴたりと止まった。
江森美鈴は、入ってきた二宮慎矢を見た。
黒く沈む夜に差し込む一筋の光みたいで、胸の奥が熱くなり、視界が一気に滲む。
「慎矢兄さん……! お願い、言って。私、わざとじゃない。新谷智也を殺したくて殺したんじゃない。信じてくれるの、兄さんだけ……信じてくれるよね?」
冷ややかで気品のある男が、一歩、また一歩と近づいてくる。
そして彼は、江森美鈴の前にしゃがみ込んだ。
抱きつきたかった。
留置されていた三日間、恐怖と不安に押し潰されそうで――ようやく無罪になって外へ出られたばかりなのに。
手を伸ばした、その瞬間。
喉が、突然締めつけられた。
二宮慎矢の手が、江森美鈴の首を掴んでいた。指が首筋に食い込み、ぎりぎりと力が込められ、息をする隙さえ与えない。
声は氷みたいに冷たく、そこに昔の情など欠片もなかった。
「どうやって……あそこから生きて出てくる面を保った?」
江森美鈴の瞳孔が、ぎゅっと縮む。
信じられない。目の前の男が、危険そのものに見えた。
息が詰まり、視界が滲む。それでも必死に声を絞り出す。
「正当防衛って認められたの……判決書が……。慎矢兄さん、私の、ポケットに……見せるから……」
二宮慎矢は、ふっと手を緩めた。
江森美鈴の胸に希望が灯る。震える手で書類を取り出し、差し出した。
だが男は一瞥もしない。受け取るなり立ち上がり、その場で火をつけ――燃える紙を江森美鈴の上へ投げ捨てた。
ベージュのワンピースに、じゅっと穴が開く。柔らかな肌が焼け、鮮烈な赤が浮かび上がった。
江森美鈴は悲鳴を噛み殺し、慌てて燃えかすを振り払う。
二宮慎矢の瞳は溶けない氷で、濃い嫌悪が滲んでいた。
「理子が俺を好きだからって、兄を殺して、理子を自殺寸前まで追い込んだ。挙げ句、弁護士を買収してのうのうと――江森美鈴。お前って、そこまで面の皮が厚くて、卑劣な女だったか」
江森美鈴は絶望のまま這い寄り、二宮慎矢の脚に縋りつく。声は震え、行き場がない。
「違う……違うの。新谷智也が私を殺そうとしたの。『お前が死ねば妹は二宮慎矢と一緒になれる』って……慎矢兄さん、聞いて――あっ!」
二宮慎矢は腕を振りほどき、容赦なく蹴り飛ばした。
江森美鈴は冷や汗を噴き、顔から血の気が引いていく。
さらに脚が上がった瞬間、江森美鈴は悲鳴のように叫んだ。
「そんなことしないで! 私、妊娠してるの! あなたの子……私たちの子なの!」
「子?」
二宮慎矢の目に、刃のような冷たさが走る。
大股で迫り、江森美鈴の細い肩を掴んで引き起こし、顎を強く挟んだ。
「言ってみろ。雑種を孕んだって?」
江森美鈴は必死に首を振る。
「違う! 違うの……! 慎矢兄さんの子よ、私たちの子!」
「先週、検査に付き添ったばかりだ。妊娠なんてしてなかった。まだそんな嘘を――?」
顎を挟む力がさらに強くなる。江森美鈴は痛みに息を呑んだ。
「嘘じゃない……来週、婚約のときにサプライズにしたくて……検査のとき、言わなかっただけ。ほんとに妊娠してる。新谷智也を殺したのも、追い詰められて――信じて、お願い」
「――パシン!」
二宮慎矢の平手が、江森美鈴の頬を打ち抜いた。
男は口元を歪めた。
「サプライズ? 二宮家に嫁ぐのが夢だったくせに、そんな都合のいい話を黙っていられるか
……弁護士の雑種だろ。江森美鈴、お前の下劣さには心底呆れる」
江森美鈴は痛む頬を押さえ、呆然と見上げた。
弁護士? 雑種? 何を言っているの。
北城で知らぬ者はいない。江森美鈴は誇り高く、目に入るのは二宮慎矢ただ一人――そのはずだった。
二宮慎矢は、彼女がまだ惚けると見るや、写真の束を取り出し、容赦なく顔に叩きつけた。
「人を殺して正当防衛だと脚本を書けるなら、その腹の雑種はどう脚本を書く?」
床に散った写真を、江森美鈴は呆然と見つめる。
そこには――彼女と弁護人の男がキスをしている写真、ベッドの写真。
場所も、周囲の様子も、写真に写っていることも。見たことがない。したこともない。
江森美鈴は顔を上げた。
突然、ひどく疲れた。もう説明する力が残っていない。
「……私はしてない。どうしてこんな写真があるのかも、説明できない」
二宮慎矢は革靴を上げ、火傷したばかりの彼女の手の甲を踏みつけた。
ぐり、ぐり、と。
傷口が、じわじわと崩れていく。
彼はまるで別人だった。表情も声も、胸に抱く憎悪も。
「どうした。証拠が揃って、もう脚本が書けないか? 演じられないか?」
江森美鈴は力なく彼を見た。
瞳の光が、少しずつ消えていく。――あれは、ずっと彼だけに向けていた光だった。
「二宮慎矢……本気で、私がそんな女だと思ってるの?」
男は、さらに腹の底から憎しみを掘り起こすみたいに靴を上げ――江森美鈴の下腹部へ、真っ直ぐ蹴り込んだ。
「下劣? そんな言葉じゃ、お前の醜さは言い表せない。
『江森美鈴』って四文字は、辞書に載せておけ。最低で、卑しくて、吐き気がするような人間――その意味としてな」
下腹部に激痛が走り、江森美鈴の涙がついに落ちた。
口元に、壊れたような苦笑が浮かぶ。
「二宮慎矢……あなた、本当に残酷ね」
「まだ始まったばかりだ。耐えられないなら、これからが楽しみだな」
二宮慎矢はそう吐き捨て、新谷理子にだけは甘い眼差しを向けると、何の未練もなく部屋を出ていった。
