第2章 彼女を精神病院に送る
江森美鈴は痛みに意識を手放し、次に目を開けたときにはもう夕暮れ時だった。病室のベッドに横たわっている。
二宮慎矢が、ベッド脇の椅子に腰掛けていた。赤く滲んだ切れ長の目を細め、指先で二つのダイヤの指輪を弄んでいる。
テーブルには、空になったボトルが二本。どちらも中身は残っていない。酔っているようにも見えるし、醒めているようにも見えた。
彼の手の中の指輪が視界に入った瞬間、美鈴の意識が一気に冴えた。電気が走ったみたいに上体を起こし、そのまま飛びつく。
だが慎矢は軽く身を引いてかわす。低く笑い、伸ばした手で彼女の顎を握り潰すほど強く掴んだ。
「覚えてるか? お前の両親の形見だ」
「このクソ野郎……! 私の両親に何をしたの!」
美鈴の目は真っ赤で、奥歯ががちがち鳴った。
慎矢はじりじりと顔を寄せ、彼女の恐怖と憎しみを鑑賞するように見つめる。まるで一枚の絵を眺めるみたいに。
「形見って言うのはまだ早いか。だが、もうすぐだ。父親は刑務所送り、母親は交通事故。遺灰は、そのうちお前のところに届く」
美鈴の全身がぶるぶると震えた。顎を掴まれる痛みなど、胸を裂く痛みに比べれば何でもない。
――この男、誰?
目の前の慎矢が、知らない他人どころか、鬼にしか見えなかった。
美鈴は必死に彼の腕を掴み、血の気の引いた顔で首を振る。
「両親は悪くない……悪いのは私。私が全部責任を取る。お願い、あの人たちだけは……私をどうしてもいいから」
慎矢は、まるで馬鹿げた話でも聞いたかのように笑った。
「悪くない? 娘を躾けられないのは親の罪だ。お前みたいな毒で淫らな女を育てた。それが最大の過ちだろ」
美鈴は彼を見つめた。長い時間、ただ見つめて――そして、ふっと笑った。
愛し合ったはずだった。今も腹には子がいるかもしれないのに、彼は手を下した。そんな男が、両親だけ見逃すはずがない。
死んだように青白い顔で浮かべた笑みは、それでも慎矢の目には燃える罌粟みたいに映ったのだろう。その笑みが癪に障ったのか、慎矢の眉間が歪み、顎を掴む力が一段と増す。
「言え。お前はそうやって田中を誘惑したのか? 何が好きなんだ。いつ、寝た?」
美鈴は笑いを止められなかった。くつくつと漏れた声が、次第に大きくなる。狂ったみたいな笑いの中で、涙が速く落ち、視界が滲んだ。
慎矢がいきなり喉を掴み、笑い声を断ち切る。血走った目で睨みつけ、吐き捨てた。
「江森美鈴。言ったはずだ。人を殺そうが、火をつけようが構わない。だが――俺を裏切るな」
その怒りを見て、美鈴は思った。
もう一文字でも多く説明するのは、無駄だ。
唇を歪め、静かに言う。
「私と田中先生は関係ない。この子はあなたの子。……そう言ったら、信じる?」
慎矢は二秒だけ睨み、冷笑した。
「今さら怖くなって嘘か? 遅い。江森美鈴、俺の目は節穴じゃない」
俺の目は節穴じゃない。
――でも、この男に残っているのは目だけだ。
美鈴は視線を逸らし、窓の外、沈んでいく夜を見た。この夜明けは、もう来ないかもしれない。
やがて視線を戻し、慎矢を見据える。
胸が裂けるほど痛いのに、笑みだけが妙に軽い。
彼の耳元へ身を寄せた。
「私が田中先生の何を好きかって? あなたより優しい。あなたより気が利く。……いちばんは、あなたより、私を悦ばせるのが上手い」
「――ドン!」
身体が乱暴にベッドから引きずり下ろされ、壁に叩きつけられた。後頭部が鈍く鳴り、頭の中がぐらりと揺れる。
二センチもない距離で、慎矢は目を剥き、今にも噛み殺しそうに睨んだ。
「江森美鈴……必ず、生き地獄を味わわせてやる!」
「望むところよ」
美鈴は唇を上げた。そこに恐怖はなかった。
慎矢は携帯を取り出し、どこかに電話をかける。ほどなくして、屈強な男たちが数人、病室へ入ってきた。
慎矢は氷のような目で美鈴を見下ろす。
「刑務所が受け入れないなら、精神状態を調べて『正気を失った状態で人を殺した』ことにして、精神病院へ送る。ちょうどいいだろ?」
美鈴は拳を握り締めた。指先が震える。歯を食いしばり、黙ったまま。
慎矢は彼女の顔から、少しでも動揺した様子を探す。だが、見つからない。
「選べ。田中が賄賂を受け取ったと証言して刑務所に送るか。精神病院で死ぬまで暮らすか」
賄賂――。
新谷智也を殺したとき、慎矢が信じなかったとき、北城の弁護士が皆、弁護を断ったとき。手を差し伸べたのは田中先生だった。彼は彼女の無罪を勝ち取った。
美鈴は虚ろに慎矢を見て、瞳の奥に一瞬だけ哀れみが生まれた。
「二宮慎矢……あなたが可哀想」
慎矢の顔が怒りで歪む。
自分の身が危うい状況でも、彼女が弁護士を庇う。裏切りを思うだけで、嫉妬が狂気に変わる。
「惜しいのか? なら条件が足りないな。……こうしよう。あいつを刑務所に送れば、俺がお前の腹の子の父親になってやる。裁判の判断も信じてやる。正当防衛だとな」
「――ドン!」
陶器が床に落ちて割れる音。
病室の入口に立っていた新谷理子の顔が、さっと青ざめた。
結局、彼が気にしているのは智也の死じゃない。――あの女の裏切りだけ。
慎矢は視線を動かさず、美鈴だけを見ていた。
彼女が心を動かさないはずがない。腹の子を守りたいのだろう? 無罪だと信じさせたいのだろう? なら、彼女の手で田中を潰させ、従順にさせれば――一度くらい許してやってもいい。
「父親……?」
美鈴は小さく呟き、笑った。そして迷いなく首を振る。
「ううん。あなたには、資格がない」
慎矢の拳が、彼女の頭の横の壁へ叩き込まれる。
「いい、いいぞ……! 江森美鈴、お前は本当にいい度胸だ!」
美鈴は嘲るように薄く笑い、男たちを見た。
「……今、行くの?」
慎矢は美鈴の肩を掴み、睨みつける。だが彼女の顔は、ただ静かだった。
なぜそんなに平然としていられる?
人を殺したのは彼女だ。罪を認めないのも彼女だ。裏切って他の男と寝たのも彼女だ。それなのに、どうして――どうしてそんなに無関心でいられる?
慎矢は苛立ちのまま彼女を突き放し、傍にいた理子を引き寄せると、美鈴の両親の指輪を彼女の手に乗せた。
「理子。これは兄貴の供え物にしろ。明後日の婚約パーティー、準備しておけ。俺が兄貴の代わりに、お前を一生守る」
美鈴は自分の薬指のダイヤを見た。
胸の奥に、澄んだ水へ落ちた墨のような苦さが滲む。
明後日は本来、彼女と慎矢の婚約パーティーの日だった。星が夢みたいに瞬く夜、広い薔薇の海の中で、彼女はプロポーズに頷いた。
――美鈴、君を娶れるなんて、俺はなんて幸運なんだ。
――美鈴、誓う。残りの人生すべてを、君だけを想い、君を信じ、守り、愛すると。
誓いは耳に残っている。結局、全部――嘘だった。
屈強な男たちが近づき、拘束しようと手を伸ばす。美鈴は一歩横へ退いた。
「大丈夫。自分で歩ける」
辱められ、狂人扱いされ、すべてを壊され、土下座して許しを乞うのを待たれている。
それでも彼女は背筋を伸ばし、淡々と部屋を出ていく。
扉の前で、足が止まった。小さく笑って、振り返る。
「二宮慎矢。もし、いつか後悔して私に許しを乞う日が来たら――」
目尻を上げ、挑むように言った。
「そのときは、こう返してあげる。『遅い。ざまあみろ』って」
慎矢の指先が、わずかに震えた。
美鈴が去ってからも長い間、彼は一度も振り返らなかった。
理由もなく、心臓に針が刺さったように痛んだ。――その理由を、彼はまだ知らない。
