第3章 地獄

江森美鈴が精神病院へ放り込まれて、今日で五日目だった。

四十度を超える高熱。ベッドに横たわったまま、ほとんど意識がない。

頭も背中も汗でぐっしょりなのに、骨の芯まで冷え切って、がたがたと震えが止まらなかった。

薄暗い照明の下、同室の精神患者が数人、面白がるように彼女の枕元へ寄ってくる。間の抜けた顔で、じっと覗き込んだ。

「――バン!」

古びた病室のドアが蹴り破られ、体格のいい男たちが数人、険しい顔でなだれ込んできた。

見物していた患者たちが悲鳴を上げて逃げ出すと、先頭の男は迷いなく美鈴のベッドへ向かい、髪を掴んで引きずり下ろした。床に叩きつけた直後、容赦なく一発。美鈴の身体は壁際まで蹴り飛ばされる。

太腿を伝って、ぬるいものが落ちた。

美鈴の顔から血の気が引き、下腹を押さえて身を丸める。

必死に瞼を持ち上げると、そこにあるのは見知らぬ顔ばかり。かすれた声が漏れた。

「……あなたたち、誰……」

頬に傷のある男が近づき、手に挟んだ赤い煙草の火を、そのまま美鈴の肩へ押しつけた。

じゅっ。

骨まで刺さるような痛みで、意識が遠のきかける。

男の怒鳴り声が落ちてくる。

「金を出せ。二宮さんから五百万もらったんだろ。江森グループのたかが数十万の借金、踏み倒す気か? 俺を舐めてんのか」

五百万。……五百万。

美鈴は、喉の奥で乾いた笑いを零した。

やっぱり。あの人は、私を死なせるのが待ちきれない。

男は笑った美鈴に苛立ち、また蹴りを叩き込む。

「金だ! ふざけてんじゃねえ、ボケた真似すんな!」

靴先が顔面を直撃した。口の端から血が滲み、額の汗が豆粒みたいに落ちて混ざる。

美鈴は唇を歪めた。

「……ない。命なら、持っていけば」

「ない? ないだと?」

男はしゃがみ込み、脂ぎったごつい手で、美鈴の頬をぺちぺちと叩く。平手というより、侮辱の音。

そのときだった。

美鈴が背中側に隠していたスマホから、二宮慎矢の声が流れた。

「死んでないなら、俺に電話してくるな」

男の顔が強張り、二秒ほど固まった。

次の瞬間、はっとして立ち上がり、美鈴の背後へ手を伸ばす。

だが別の男が腕を掴み、耳元で囁いた。

「兄貴、逃げましょう。二宮さんを呼び寄せたら、こっちが殺されます」

先頭の男は歯噛みしながら手を引っ込め、美鈴へ唾を吐き捨てると、足早にドアへ向かった。

美鈴は、喉の奥から声を絞り出した。

もう諦めたはずなのに――この瞬間だけ、最後の最後で、欲が出た。

「二宮慎矢……殺される。助けてくれる? あなたの子……助けてくれる?」

返ってきたのは、氷みたいに冷たい声だった。

「惨めったらしく芝居するな。お前が本当に死んだとしても、理子の兄と新谷家に命で償うなら、それは自業自得だ」

ドア口にいた男たちが、ぴたりと足を止める。

二宮慎矢は、わずかに間を置き、噛み砕くように言った。

「それと、その雑種も――お前と一緒に地獄へ落ちるのが当然だ」

逃げかけていた男たちは顔を見合わせ、堪えきれないように笑い出した。下品で、勝ち誇った笑い。

ほら、そうだろ。

二宮さんが、この人殺しのクソ女を助けに来るわけがない。

美鈴はスマホを口元へ運んでいた手から力が抜け、だらりと落ちた。

意識が濁っていく。声は、砕けた独り言に変わる。

「……私たちの子なのに。二宮慎矢……私を憎んでもいい、せめてこの子だけ……あなた、夢でも欲しいって言ってたじゃない……」

「……医者が言った。私、珍しい血で……二人目は難しいって。これがだめになったら……もう、子ども……」

「二宮慎矢……お願い。私を……この子を……」

返事はない。

一言も、ない。

美鈴の涙が、静かに落ちた。

心が死ぬより、心が死にきれないほうが、ずっと痛い。

この電話は、かけるべきじゃなかった。

通話を切り、スマホを落とす。

男たちが引き返してきた。

今度は、先頭の男の顔に迷いがない。灰色の汚れた革靴が、美鈴の手の甲を踏みつけた。

ぐりっ。

「ちんたらすんな! 金を出せ!」

美鈴は息を吐くように答える。

「……ない。残ってるのは、命だけ」

男はふいに表情を変え、足を退けた。

そして美鈴の指に視線が吸い寄せられる。目に浮かんだのは、露骨な欲。

男は身を屈め、薬指へ手を伸ばした。

「この指輪……相当、金になるだろ」

美鈴は慌てて手を背中へ隠す。

「偽物……」

それは先月、二宮慎矢がプロポーズしたときに贈った指輪だった。

男たちが一斉に吹き出す。

先頭の男が乱暴に手首を掴み、引きずり出した。

「あり得ねえだろ。江森家のお嬢様が、偽物なんて着けるかよ。ほら、外せ。俺が金になるか見てやる」

「違う……本当に、価値なんて……」

美鈴はか細い声で、残った力をかき集めて手を引いた。

男は一瞬、目を丸くする。まだ抵抗できるとは思っていなかったのだろう。すぐに口元を歪め、刺すように笑った。

「へえ。どこの男にもらったんだ?」

また笑いが起きる。

美鈴は頭を上げ、男を見た。

「……少しだけ、時間を。江森グループの借りた分は……返す」

傷の男の顔が、すっと冷えた。

美鈴の腕を引きずり出し、足で手を踏みつけて押さえ込む。

「クソ女。剛、来い。こいつの指、落とせ」

後ろの男が短く答え、ナイフを抜く。しゃがみ込み、薬指へ刃を当てた。

美鈴の心臓が、ひゅっと縮む。

「……わかった。渡す。外して、渡すから……」

傷の男が、ねっとり笑った。

「悪いな、お嬢さん。気が変わった」

そして低く言い捨てる。

「指一本なら、二宮さん相手にどんな金より効く。ほら、やれ」

刃が、容赦なく食い込んだ。

指先から全身を駆け抜けるような激痛が走った。

美鈴は一瞬で意識を手放した。

次の瞬間、氷水が頭から浴びせられる。

死ぬことさえ、彼女には贅沢だった。

耳鳴りが轟く中、傷の男が耳元へ顔を寄せ、わざと声を張り上げる。

「二宮さんから伝言だ。ここを出たきゃ、我慢してないで人を殺せ」

「人を一人やりゃ、居場所も変わる」

「江森お嬢様が、もう一つ命を汚したら――裁判所がまた無罪にするのか、見てみたいってさ」

血が太腿を伝い、どくどくと溢れた。

世界が、眩しくて恐ろしい赤一色に塗り潰されていく。

傷の男は立ち上がり、ドアの外で縮こまっていた精神患者たちを呼び入れた。

大きな菓子袋を床へ放り投げる。

患者たちは目を輝かせ、四つん這いで群がった。

「お菓子! わあ、いっぱい!」

傷の男が言う。

「あの血を流してるお姉さん、見えるか? これから毎日、誰でもいい。あいつを泣かせたやつには、もっと褒美をやる」

患者たちは顔を上げ、期待に満ちた表情になる。

「ほんと? あの人のベッドに毒蛇とかムカデ隠す! ご飯もあげない! ほかにもいっぱいできる!」

傷の男は満足げに頷いた。

「賢いな。ただし、お前らを見てるおばさんにバレるなよ」

患者たちは大きく頷く。

傷の男は、床に転がり、ほとんど息も絶え絶えの美鈴へ近づいた。

囁くように言う。

「江森お嬢様。ナイフは枕の下に置いとく。耐えられなくなったら、殺したい相手を殺せ」

「指、ありがとな」

美鈴は、力なく瞼を閉じた。

悪夢は終わった。

――いいえ。終わってなんかいない。

この悪夢は、これからの一年。三百六十五日、昼も夜も、毎秒毎秒、繰り返される。

二宮慎矢。

私は残りの人生を使って祈る。生まれ変わったとしても、何度生を繰り返したとしても、その先のどんな人生でも――二度と、あなたに会いませんように。

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