第5章 美鈴、君の指はどこだ?

車内。二宮慎矢はノートパソコンのキーボードを指先で叩き続けていた。冷えた眉目の奥に、苛立ちが薄く滲む。

真田健太が乗り込むなり金縁眼鏡を外し、だらりと背もたれに身を預ける。すると二宮が低い声で言った。

「次からは用があるなら自分で運転して来い。俺の時間を無駄にするな」

「はぁ? なんだよそれ~」

真田は眉をつり上げ、隣で仏頂面の男を横目に見る。

「お前だけそんなに忙しいのかよ。毎日毎日、そんなに冷たくしてたら凍死するぞ」

二宮は返事もしない。画面へ視線を戻し、淡々と仕事を続けた。

真田も深追いはせず、手元の一枚の絵を満足げに眺めると、運転席の佐藤に声を投げた。

「佐藤、お前んとこ最近、ちっさい出版社だか始めたんだろ。今日は機嫌いいからさ、10万でイラスト一式、俺が手配してやった。名刺も渡しといた」

ハンドルを握る佐藤の手がびくっと跳ね、バックミラー越しに目を丸くする。

「イラスト……10万ですか? 真田さん、うちは基本デジタルで描いてますし、専任のスタッフもいます。それに10万はさすがに……」

うちの絵担当の半月分の給料が、そのくらいだ。

真田は即座に首を振った。

「それは違うだろ、佐藤。デジタルが悪いってわけじゃないけど、手で描くのは別格だって。決まりな。向こうから電話が来たら俺に言え。俺が話つける」

佐藤の顔がみるみる崩れる。

「真田さんのおっしゃることは分かります。でも、うちは本当に小さくて……手描きが良くても、10万一式は買えません」

「うるさい。金は俺が出す。絵はお前が受け取れ――」

「女か?」

二宮の指が止まり、横目でさらりと遮った。

真田は一瞬きょとんとしたあと、膝を叩いて身を乗り出し、二宮の肩に手を回しかける。

「ほら見ろ、ほら! 佐藤、やっぱお前んとこの社長は分かってる!」

「触るな」

二宮の声が沈む。真田は慌てて手を引っ込めたが、興奮は収まらない。

「慎矢さん、信じろって。今回の俺の目は外れない。何日も観察したんだぞ。服は普通、スタイルも普通、顔はマスクと眼鏡でガッチガチに隠してるのにさ……雰囲気が、隠しきれてない。あれは本物だ。絶対、とんでもない美人が隠れてる!」

二宮は眉を寄せ、淡々と返す。

「どこでも騙されるな。金はもう払ったのか」

「払うわけないだろ!」

真田は絵を二宮の目の前にぐいっと押しつけた。

「そもそも金なんて受け取ってない。まだ引き受けてもいないし。ほら、詐欺師がこんな絵、描けるか?」

二宮は薄く唇を動かし、短く吐き捨てる。

「焦らして釣る」

そして眉をひそめたまま、絵をノートパソコンの上から払いのけた。

真田は絵を引っ込め、肩をすくめる。

「はぁ……まあいい。お前らみたいなのには分かんねぇよ」

彼はまた絵を眺め、視線を端の小さなアルファベットへ落とした。

「E.M……これ何だ? 住所? 名前?」

「――さっ」

紙が引き抜かれる。

真田がむっとして二宮を見る。

「見ないんじゃなかったのかよ」

二宮の声に、はっきりと冷気が混じった。

「引き返せ」

運転手は慌ててウインカーを出し、車を反転させる。

真田は目を見開いた。

「どこに戻るんだよ? おばあちゃん、飯待ってるって――」

車は図書館の前で止まった。二宮は氷のように言う。

「停めろ。先に健太を送れ。俺は加藤を呼べ」

誰も状況を飲み込めないまま、二宮は降りてドアを閉め、図書館へ大股で向かった。

瞳は冷え切り、怒りを含んだ笑いが喉の奥で鳴る。

――よくやる。江森美鈴。二年ぶりでも、相変わらず懲りない。男なら誰にでも手を伸ばすのか。

五階建ての図書館。二宮は一階ずつ、淡々と探した。

四階で見つけた。

事務机の前に座り、俯いて作業をしている女。帽子に手袋、マスクと眼鏡で、肌の露出を徹底的に隠している。

こんな暑い日、こんな室内で――それでも。

その瞬間、胸の奥に言いようのない感覚が湧き上がり、次の刹那、名もない怒りに塗り潰された。

二宮は迷いなく歩み寄り、絵を描いていた女の腕を掴んで引き起こした。

江森美鈴は突然腕を引かれたことで、心臓が跳ね上がる。それでも声は出さない。必死に押し殺し、顔を上げた。

掴んでいる男を見た途端――あの一年が、鮮やかに蘇る。

一日一日、削られていった痛み。逃げ場のない暴力。積み重なる絶望。

瞳に底知れない恐怖が浮かび、身体がぶるぶると震え出す。血の気の失せた唇が何度も震えるように動くのに、喉からは音が出ない。

二宮の目が深く沈む。

――俺はどうかしてる。こんな、生気の欠片もない女が。こんな怯え切った女が。あの、冷酷で、口が達者で、人の心を弄ぶ江森美鈴のはずがない。

二宮は肩から手を離すと、次の瞬間、彼女の顔のマスクと眼鏡を乱暴に引き剥がした。

露わになったのは、痩せすぎて輪郭が変わりかけた小さな顔。それでも、目鼻立ちの隅々が告げている。

間違いない。あの頃、誇り高く見下ろしていた江森家のお嬢様だ。

江森美鈴の顔から血の色が消えた。彼女は机の上のスマホを掴み、震える指で番号を押す。

「し……司書さん……だ、誰かが……騒ぎを……」

二宮はスマホを奪い取り、彼女の腕を掴んで引きずるように歩き出した。

図書室の外へ出たところで、司書が駆けつけてくる。二人の姿を見た瞬間、その顔色が変わり、怯えたように近づいた。

江森美鈴は藁にもすがるように、震え声で訴える。

「山本さん、私、この人、知りません……ほ、本当に……本当に知りません」

山本は二宮の前で恭しく頭を下げた。

「二宮さん……本日は、どうしてこちらへ」

二宮は一瞥すらくれず、江森美鈴を掴んだままエレベーターへ押し込む。

彼女が必死に手を振りほどき、外へ逃げようとしたときには、もう扉が閉まっていた。

密室。彼女の手足は震えっぱなしで、拾い直したマスクと眼鏡をつけようとする。唇がかすかに動き続ける。

「ちがう……人違いです……ほんとに、ちがう……」

二宮はそのマスクを叩き落とし、彼女を引き寄せた。左手首を掴み、手袋へ指をかける。

「知らない? 俺を知らない? じゃあ、これは何だ」

江森美鈴が甲高く叫ぶ。

「やめて!」

遅かった。手袋が床に落ちる。

露わになったのは、白く細い手のひら――薬指のない左手。

世界が、音を失った。

エレベーターの扉が開く。だが中の二人は、動けない。

どれほどの時間が過ぎたのか。二宮の声が、震えたまま漏れ出した。

「……指は、どうした」

江森美鈴は恐怖に弾かれたように手を振りほどき、エレベーターの隅へ蹲った。できるだけ遠くへ。見上げる目は、鬼を見るように怯え切っている。

二宮は重い足を動かし、彼女の前にしゃがみ込んだ。呼吸が乱れ、言葉がうまく形にならない。

それでも、確かめずにはいられなかった。

「美鈴……お前の指は、どこへいった」

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