第6章 彼女が辱めを受けても、彼は冷ややかに見過ごした
江森美鈴は呆然と彼を見つめた。やがて、かすかに笑い声が漏れる。瞳の奥にはあっという間に涙が溜まったのに、一滴も落ちてこない。
そしてようやく、凪いだ声で言った。
「……私が気をつけていればよかっただけ」
二宮慎矢が伸ばした手で、彼女の肩を押さえる。指先が震えていた。
「言え。誰にやられた」
江森美鈴は首を横に振る。
かつて狂おしいほど愛した男。骨の髄まで憎んだ男。――それが二年ぶりに目の前にいるのに、今の彼女に残っているのは、芯まで染みる恐怖と拒絶だけだった。
笑みを貼りつけたまま、もう一度繰り返す。
「誰も。ほんとに、私なの」
二宮慎矢の目が赤く滲む。彼は彼女の瞳を食い入るように見つめ、長い沈黙ののち、立ち上がると有無を言わせず彼女を抱き上げた。横抱きのまま、何も言わず外へ。
江森美鈴は抵抗しない。ただ、怯えきった目で彼を見ている。
その視線が、はっきりと懇願していた。
二宮慎矢、お願い……もう、放っておいて。
車に押し込まれても、彼女は言葉ひとつ吐かない。身体だけが、がたがたと狂ったように震えていた。
無駄だ。彼が放さない限り、逃げられない。
二宮慎矢は彼女の肩を強く押さえ、無理やり自分のほうへ向けさせる。歯を食いしばって、もう一度。
「誰がやった」
江森美鈴は虚ろな目で彼を見た。
「嘘じゃない。私がやったの」
男は怒りに任せて拳を座席へ叩きつけた。どん、と鈍い音胸の奥を鋭く引き裂かれるようなのに、口から出てくるのは人を殺す言葉ばかりだ。
「そんなこと言ったって、同情して放してやると思うな」
江森美鈴は答えない。彼から一番遠い窓側へ、そっと身を寄せた。震えも恐怖も、悟られないように押し殺しながら。
二宮慎矢が睨みつける。
「なんで健太にちょっかい出した」
江森美鈴は少し遅れて顔だけ向けた。そこにあるのは、ただの疑問。
「……ごめんなさい。聞き取れなかった」
淡い、波ひとつ立たない水面。憎しみも、恨みも、怒りもない。まるで初対面の他人を見る目。
その凪いだ眼差しが、二宮慎矢には刺さるほど眩しかった。
彼は一語ずつ噛みしめるように言う。
「とぼけるな。あの図書館は北城でも有名な貴族図書館だ。そこに来たってことは、男目当てだろ」
怒らせたい。今ほど強くそう思ったことはない。
江森美鈴は真面目に記憶を辿るように少しだけ視線を泳がせ、首を振った。
「……その人、知らない」
質問に答えるだけの機械みたいに。
掻きむしりたくなる苛立ちが一気に噴き上がり、二宮慎矢は彼女の肩を掴んで引き寄せた。身を屈め、乱暴に唇を塞ぐ。
江森美鈴は顔を横に逸らしかけたが、唇が触れてしまった瞬間から、もう抵抗しなかった。
目も変わらない。至近距離の眉、鼻筋をただ真っ直ぐ見つめている。強引にキスされているのが、まるで自分ではないみたいに。
唇は氷みたいに冷たい。近くで見るほど、顔色の白さが異様だった。まるで生気を失った人形のように。
二宮慎矢が唇を離す。
思わず、慎重に名を呼んでしまう。
「……江森美鈴?」
呼ばれた彼女は顔を上げ、次の言葉を待つように彼を見た。
その瞬間、二宮慎矢の背中に冷たいものが走る。
二年前の江森美鈴は、もういない。
ずっと、息をするみたいに簡単に掴めていたはずのものが、音もなく消えてしまった。そんな感覚が、彼に恐怖を連れてきた。
彼は前の運転手へ言い放つ。
「家へ。どこまで演じられるか見てやる」
江森美鈴は黙って俯いたまま、車が実家に着くまで何の反応も示さなかった。
車が止まると、二宮慎矢が冷たく命じる。
「降りろ。入るぞ」
静かに座っていた女が顔を上げた。門の前に立つ数人の男を見て、かすれるような声で言う。
「……行かないと、だめ?」
二宮慎矢は鼻で笑う。ほら見ろ。無反応なんかじゃない。やっぱり演技だ。
彼はドアを開けて降り、吐き捨てる。
「分かってるだろ。俺の手の中に入ったら、選べない」
江森美鈴は車を降り、彼の背中を追って二宮家へ入った。
今日は二宮婆さんの誕生日パーティーだった。客は多い。二宮慎矢の婚約者である新谷理子と、新谷家の人間も来ている。
一歩進むたび、逃げ出したい衝動が濃くなる。同時に――あの一年、こいつのせいで味わわされた数々の暴力と屈辱が、脳裏に蘇ってくる。
逃げたい。でも、逃げられない。
すでに何人かが寄ってきて、愛想笑いで二宮慎矢に話しかけていた。
江森美鈴は震える手をポケットへ入れ、マスクと眼鏡を探り当てる。身につけようとした。
出入りする誰もが着飾っている。視線の端々が、場違いな格好の自分へ向けられている気がした。
美鈴は頭を深く垂れた。ずっと穴の中に隠れていた鼠が、いきなり人目の集まる場所へ放り出されたみたいに。
――鼠。人を殺した女。無罪になったとしても、北城では誰もが知っている。
そのとき、手が伸びてきて、マスクを持つ彼女の手首を掴んだ。
二宮慎矢の声は淡々としている。
「つけるな」
江森美鈴は黙ってマスクをポケットへ戻し、敷居を跨いだ。奥へ進むほど喧騒は大きくなり、頭の中の耳鳴りも鋭く膨れ上がっていく。
発作の前触れだ。
両手をきつく握り合わせる。こめかみに冷たい汗が滲んだ。
重い神経衰弱と抑うつ。騒がしい場所が怖い。人混みが怖い。強い光すら怖い。刺激に耐えられない。
精神病院を出てからの一年、彼女はほとんど暗くて人のいない場所で息をしてきた。こんなパーティーなど、論外だった。
わざと置いていくように、二宮慎矢は男たちに囲まれ、談笑しながら先へ進んでいく。
今や二宮グループの社長。実権を一手に握り、まさに頂点に立つ存在だ。このパーティーの主役は彼になる。
江森美鈴は壁際をなぞるように歩いた。俯いて見えるのは、革靴とハイヒールの列ばかり。胸を締めつける息苦しさが増していく。
足取りが速くなる。静かな隅を探したい。透明人間みたいに、誰も見ず、誰にも見つからずにいられる場所を。
だが、シャンパンカラーのハイヒールが、彼女の正面でぴたりと止まった。
江森美鈴は慌てて横へ一歩ずれ、回り込もうとする。
同時に、そのハイヒールも同じ方向へ動き、また行く手を塞いだ。
左右に避けるのを四度繰り返したところで、江森美鈴は息が上がり、苦しそうに顔を上げた。
次の瞬間、立ちはだかる女は宝くじでも当てたみたいに目を輝かせ、甲高い声を張り上げる。
「見て見て! これ、北城の雲の上の江森お嬢様――江森美鈴じゃない! その格好……」
女はわざとらしく長く「ちっ、ちっ」と舌を鳴らし、さらに声量を上げた。
「江森お嬢様は二年も海外で勉強してきたって聞いたけど、これが最新の流行ってやつ?」
江森美鈴の喉から「ひゅっ、ひゅっ」と擦れる呼吸音が漏れる。
無数の視線が一斉に自分へ突き刺さった、その瞬間。顔色がさっと死のように白くなり、大粒の汗が頬を伝って落ちた。
耳鳴りが針みたいに尖り、頭の中が破裂しそうになる。彼女は踵を返して逃げようとした。
だが女はすぐに数歩詰め、ハイヒールでまた前を塞ぐ。
江森美鈴は足を引っかけ、よろめいた。
その拍子に女がわざとらしく身体を揺らし、赤ワインのグラスが傾く。
どぷり。
真っ赤な液体が、まっすぐ江森美鈴の身体へ降りかかった。
