第7章 説明してくれ
赤い液体が江森美鈴の首筋を伝い、服の中へと流れ落ちていく。
ひやりとした感触に、底なしの恐怖と不安が絡みつき、彼女はぶるぶると何度も身震いした。
怒る余裕なんてない。ただ一刻も早くここから逃げたい。頭の中の一本の糸は、限界まで張り詰めていた。
鋭い囁きが四方から突き刺さる。
「これ、本当に二年前の、あの傲慢だった江森のお嬢様? 当時は絵を一枚出すだけで500万で落札されてたのに」
「信じらんない。よく見なきゃ、こっそり紛れ込んだホームレスかと思ったわ。ははは」
「昔どれだけ羽振りが良くてもねえ。可哀想な人って、だいたい恨まれる理由があるのよ。あんな悪辣な殺人犯、顔出せるわけないじゃない」
「二宮社長が連れてきたってことは、晒しものにしたいんでしょ。ほら、あそこ。二宮社長、見てる」
江森美鈴は頭を抱え、よろめきながら人混みをかき分けようとした。とにかく、ここを出たい。
けれど皆、二宮慎矢の態度を見ている。彼女がどちらへ向かおうと、わざと身体を寄せて塞ぐ者が現れた。
嘲笑と罵声が波のように押し寄せ、意識が崩れ落ちそうになる。
「――ぱんっ!」
髪を乱暴に掴まれた次の瞬間、頬に硬い衝撃が叩き込まれた。
視界も音も滲んでいく中で、江森美鈴はかろうじて見て取る。怒りに顔を歪め、平手を振るった女――新谷理子の母、新谷夫人だ。
「この恥知らずのクソ女! うちの息子はまだ骨も冷えちゃいないのに、よくも私の前にツラ晒せたわね!」
野次馬は増える一方だった。冷ややかな視線が、指先が、彼女を刺す。
二宮慎矢は少し離れたソファに座っていた。長い脚を組み、床に転がされた江森美鈴を淡々と眺めている。
手元の赤ワインがゆらりと揺れる。墨のように深い瞳は、感情の欠片すら読ませない。
――怒るのを待っている。あるいは、助けを求めて縋ってくるのを。
江森美鈴は必死に起き上がった。説明はしない。ただ焦るように口を開く。
「すみません……私が悪いです。すぐ、出ていきます」
その言葉に、新谷夫人の目が真っ赤に染まった。彼女は十センチを超えるハイヒールを脱ぎ捨て、江森美鈴へ突進する。
「ほらね! やっぱり認めた! あんたがうちの子を殺したんだ! 今日こそ殺してやる、絶対に――!」
新谷夫人は江森美鈴に覆いかぶさり、拳を振り下ろした。
江森美鈴は身体を丸め、頭を抱え込む。まるで一年前、薄暗い部屋で精神を病んだ者たちの拳と蹴りに晒され、抵抗しない術だけを覚えたときみたいに。
容赦のない拳と蹴りが、次々と全身に叩き込まれる。
そこへ、柔らかな声が割って入った。
「お母さん、もういい」
その声が鼓膜に触れた瞬間、江森美鈴の拳がきゅっと握られる。だがすぐに力は抜け、表情は死んだように静まった。
新谷理子が優雅な足取りで近づいてくる。黄色のドレスに身を包み、眩しいほどの光をまとっていた。
彼女は新谷夫人を引き起こし、たしなめる。
「お母さん、ここは騒ぐ場所じゃないわ。江森さんは慎矢が連れてきたんだから、お客さまよ。二年前の件は裁判所が結論を出したんだし、蒸し返さないで」
新谷夫人は悔しげに、這い起きた江森美鈴を睨みつける。
「理子、あんたは甘すぎるのよ。こんな女、痛い目見せてやらなきゃ!」
新谷理子は小さく叱った。
「やめて。今日はおばあちゃんの誕生日なの。お客さまも大勢いるんだから、慎矢の顔に泥を塗るようなことはしないで」
そう言うと、彼女は江森美鈴へ歩み寄り、腕を取った。
「江森さん、先に着替えましょう。風邪ひくわ」
江森美鈴は振りほどこうとした。だが、二宮慎矢から向けられた有無を言わせぬ視線を感じた途端、俯いてしまう。抵抗を飲み込み、新谷理子に従って休憩室へ向かった。
扉が閉まる。
新谷理子はクローゼットからワンピースを取り出し、江森美鈴の足元へ放り投げた。
「着替えて」
江森美鈴がしゃがんで拾おうとした瞬間、ハイヒールが彼女の手の甲を踏みつけた。
江森美鈴は顔を上げる。静かすぎるほど平然と。
新谷理子は鼻で笑った。
「この部屋、覚えてる?」
江森美鈴は答えない。その無表情が、新谷理子の胸の妬みをさらに煽った。
「慎矢の部屋よ。昔、あんたも住んでたんでしょうね。でも今は、私と慎矢が一緒に使ってる。あんたみたいな嫌われ者が、どのツラ下げてまた踏み込んでるの?」
江森美鈴は小さく言った。
「長袖の上はありますか。ワンピース、慣れてなくて」
新谷理子の眉がきつく寄る。足を退けながら吐き捨てた。
「私の話、聞いてる?」
江森美鈴は立ち上がり、踏まれた手を服で軽く拭う。そして頷いた。
「聞こえてます」
新谷理子は大股でクローゼットへ入り、上着を一枚掴んで戻ってきた。床へ投げ、わざと靴で踏みつける。
挑発するように見下ろした。
「いいわ。じゃあ、これ着れば?」
江森美鈴は本当に歩み寄り、上着を拾い上げる。背を向けたまま淡々と着替えた。
その瞬間、新谷理子の顔色が変わった。
――何、その態度。何のつもり?
可哀想ぶるにしたって、江森美鈴がこんな屈辱を飲み込めるはずがない。
新谷理子は歯を食いしばり、低く唸る。
「慎矢に同情させたいの? 江森美鈴、ほんと手が込んでるわね。言っとくけど、無駄よ。絶対に」
江森美鈴は着替え終え、赤ワインで汚れた白いパーカーを手に持ったまま、波ひとつ立たない顔で振り返る。
「新谷さん、もう出てもいいですか?」
――こんなの、江森美鈴じゃない。
あのクソ女、替え玉でも用意して整形させて紛れ込ませたの?
新谷理子は苛立ちに任せて襟元を掴み、目を剥いて睨みつけた。
「……あんた、誰?」
女は機械みたいな声で答える。
「新谷さん。私は江森美鈴です。あなた、知ってるでしょう」
「ありえない! このクソ女! 言いなさい、江森美鈴はどこ!」
新谷理子は手を振り上げ、頬を叩こうとする。
だが江森美鈴が腕を上げ、新谷理子の手首を掴んだ。
真っ直ぐ見つめ、言う。
「叩かないでください」
誰に殴られてもいい。けれど――新谷理子と二宮慎矢だけは、駄目だ。
新谷理子は歯噛みした。やっぱり、この女は演じている。
引き抜こうとするが、江森美鈴の指は静かに、しかし確かに力を込めている。振りほどけない。
そのとき、外から扉が押し開けられた。
かつ、かつ、と硬い足音が踏み込む。
新谷理子が「あっ」と声を上げ、身体が真後ろへ倒れ込んだ。
入ってきた二宮慎矢がすぐさま大股で寄り、新谷理子を支え起こす。淡い声で問う。
「大丈夫か」
新谷理子は首を振り、下唇を噛んだ。瞳に涙が滲む。
二宮慎矢が顔を上げ、呆然と立つ江森美鈴を見据える。
「理子を突き飛ばしたのか?」
同じ瞬間、江森美鈴の耳に、二年前のあの言葉が蘇る。
『理子が俺を好きだからって、お前は兄を殺すのか?』
江森美鈴の瞳の奥で、かすかな波が揺れた。だが彼女は頷く。
「……すみません。私が悪いです」
二宮慎矢の表情が強張り、立ち上がって迫る。
「説明しろ。お前じゃないって言え」
江森美鈴は退かなかった。息が触れそうな距離で、首を横に振る。
「私が押したのが悪かったです。ごめんなさい」
二宮慎矢の顔が完全に暗く沈む。彼は江森美鈴の腕を乱暴に掴み、そのまま外へ引きずった。
「いい度胸だな。そんなに謝りたいなら――今日は、飽きるほど謝らせてやる!」
