第8章 言い訳はしない、私がわざと殺したんだ
新谷理子の瞳の奥に、憎しみがひらりと走った。彼女は小走りで追いすがる。
「慎矢、慎矢……やめて。江森さんはわざとじゃないの。私、ほんとに平気だから……私のために、そんなことしなくていい」
二宮慎矢は聞く耳を持たない。怒りに呑まれたまま、江森美鈴の腕を乱暴に掴み、ずるずると引きずっていく。向かった先は、客でごった返すホールの正面だった。
ステージでは司会者が、誕生日パーティーのお祝いの言葉を調子よく読み上げている。
二宮慎矢はそのまま上がり込み、司会者の手からマイクをひったくった。声は凍てつくほど冷たい。
「降りろ」
眉を躍らせていた司会者は固まった。ようやく我に返ると、マイクのないまま慌てて声を張り上げる。
「で、では……二宮さんから一言、いただきましょう!」
言い終えるより早く、刃物みたいな視線が突き刺さる。司会者は顔色を変え、逃げるようにステージを降りた。
二宮慎矢は江森美鈴をステージの中央へ引きずり出す。
見下ろせば、ぎっしりと人、人、人。江森美鈴は頭を深く垂れ、息が浅く速い。顔は紙みたいに青白かった。
震える唇の内側で、何度も何度も言い聞かせる。
大丈夫。大丈夫。下には誰もいない。誰もいない。全部、幻だ。
二宮慎矢はマイクを彼女の口元へ突きつけ、低く言い放った。
「新谷智也を殺したのは、お前か」
江森美鈴は小さく答える。
「……はい」
か細い声がマイクに拾われ、広いホールの隅々まで響き渡った。自分の声が増幅された瞬間、心臓がびくりと跳ねる。
二宮慎矢は歯を食いしばり、冷たく笑った。
「そうか。……いい、いい。故意だったのか?」
江森美鈴は爪を掌に食い込ませ、俯いたまま黙る。
何百もの視線が、一斉に彼女の顔へ降り注ぐ。
二宮慎矢がもう一度、問い直した。
「答えろ。新谷智也を殺したのは、故意か。正当防衛か」
握りしめた手ががたがたと震える。江森美鈴はようやく口を開いた。
「……故意です」
「何が、故意だ」
「私が……新谷智也を、故意に殺しました」
その言葉はホールの隅まで一気に走り、あちこちで「ひっ」と息を呑む音が重なった。
次の瞬間、場はざわりと崩れる。スマホを構えて撮る者、怒鳴って罵る者、面白がって騒ぐ者。新谷夫人が今にも飛びかかろうとするのを、わざとらしく引き止める者までいる。
二宮慎矢は拳を握り潰し、テーブルへ叩きつけた。ドン、と鈍い音。血の滴る手で江森美鈴の顎を鷲掴みにする。
「なら、裁判所はなぜああいう判決を出した」
江森美鈴は鈍く顔を上げた。瞳の中に映るのは、息を呑むほど整った男の顔。
ふと、思う。
二年前、腹の中にいたあの子が生まれていたら――今ごろ一歳を過ぎていた。きっと目元は、この人にそっくりだったはずだ。
虚ろな視線がまた落ちる。口元だけが、かすかに歪んだ。
「……私が、弁護人を買収したからです」
二宮慎矢の指が顎に食い込み、砕けそうなほど力が増す。
「どうやって買収した」
江森美鈴は感情の欠片もなく、まるで他人事みたいに言った。
「関係を持ちました。……その人の子どもを、妊娠しました」
「――ッ!」
後頭部が壁に叩きつけられる。ゴン、と鈍い衝撃。二宮慎矢は片手で彼女の肩を押さえつけ、もう片方で喉を締め上げた。
頬の筋肉まで引きつり、目は真っ赤だ。歯がかちかちと鳴る。
「……よくも……よくも、そんなことができたな!」
息が奪われ、視界が滲む。江森美鈴は抵抗しない。ただ、喉に食い込む手が強くなるのを受け入れる。
世界が急速にぼやけ、身体が崩れ落ちる、その瞬間――男の腕が彼女を抱えた。
ふわりと宙に浮く感覚。耳元の喧騒が一気に膨らみ、次いで、すとんと落ちる。周囲は唐突に静かになった。
窒息がほどけ、ようやく息が入る。意識がゆっくり戻ってくる。
重いまぶたをこじ開けると、前方に座席の背がぼんやり見えた。車の中だ。
妙な感覚だった。確かに死んだはずなのに、惨めに生き返ってしまった――そんな感じ。
この二年、悪夢から目覚めるたび、いつもそうだった。
二宮慎矢は怒りで理性が切れかけている。彼女が目を開けたのを見るや、腕を掴んで無理やり座らせ、顔を向けさせた。
髪を掴み上げ、目を逸らすことも許さない。
「その雑種はどこだ。どこにいる!」
江森美鈴は苦しげに首を振った。
「……いません」
二宮慎矢の黒い瞳が、わずかに揺れる。
「妊娠なんてしてなかった。俺を騙したのか?」
「流産しました。精神病院にいたときに」
針が胸に刺さるみたいな痛みが走る。だが、渦巻く嫉妬と憎悪の前では、その痛みは塵同然だった。
二宮慎矢は江森美鈴を突き飛ばし、彼女の頭が車窓にぶつかるのも構わず、前を睨みつける。
「加藤さん。あのとき、こいつを弁護した弁護士を探せ。どう死ぬか――」
「もう死んでます」
江森美鈴が遮った。今度は、淡々とした表情の奥に、ほんのわずかな色が浮かぶ。
唇の端に、かすかな笑み。絶望も、罪悪感も、痛みも、その微笑みの奥に押し込められていた。
二宮慎矢の身体が、ぴたりと固まる。
江森美鈴は小さく続けた。
「私を弁護して、司法の公正さを踏みにじった。世間の怒りをすべて受けて、世間から激しく責められて……だから、死にました」
――世論は、姿のない凶器だ。人を殺すのに、血も刃もいらない。
言いようのない感情が胸の奥からせり上がり、二宮慎矢は言葉を失った。
江森美鈴は身体を少しずらし、乞うような目で彼を見上げる。
「二宮さん……もう、放して下さい。私には、何も残っていません。江森家にも、もう何も……」
隣に座っている。距離はせいぜい十センチほど。それなのに、二人の間には見えない深い溝が引かれていた。
この先何十年生きようと、越えられない溝。
二宮慎矢がぐっと迫り、冷えた瞳で心の奥まで覗き込むように言う。
「放す? ふざけるな」
江森美鈴は唇を動かしたが、何も言わなかった。
やがて車が見知らぬ道へ入ったのに気づき、ようやく口を開く。
「……仕事に戻らないと。降ろしてください」
その距離の取り方、その丁寧すぎる言い方が、彼の耳には一文字ずつ嘲笑に聞こえた。
二宮慎矢の声は氷のように冷たい。
「俺と帰る。今日は仕事はいい」
江森美鈴は一瞬、言葉に詰まる。それでも、はっきり言わざるを得なかった。
「二宮さん、飲みすぎです。私には私の家があります。もし私の仕事ぶりが不快なら……降ろして下さい。家に帰って、すぐ辞めますから」
二宮慎矢の顔が鉄みたいに青黒くなる。
「どこに住んでる。加藤に送らせる」
江森美鈴の胸がひゅっと縮んだ。反射的に口が滑る。
「……結構です。自分で帰れます」
二宮慎矢が睨み据える。
「江森美鈴……どういうつもりだ。何がしたい。今さら被害者面か!」
「誤解です。二宮さんのお時間は貴重ですから。自分で帰れます」
ついに堪えきれず、二宮慎矢が低く吠えた。
「……降りろ!」
加藤が慌てて急ブレーキを踏む。江森美鈴はすぐにドアを開けて降り、タクシーを拾って走り去った。
車内の二宮慎矢の目は、今にも誰かを殺しそうに冷え切っている。
「追え」
