第9章 白血病
タクシーに乗り込んだ直後、江森美鈴は背後からついてくる車の存在に気づいた。
車の少ない道へ入っても、相手はぴたりと距離を詰めたまま離れない。美鈴は声を震わせて言った。
「運転手さん、もう少しスピード出せませんか?」
運転手はバックミラー越しに、やけに目立つマイバッハをちらりと見てから、美鈴へ視線を戻した。どこか感心したような顔つきになる。
「……あの車、お嬢さんの知り合いかい? 追ってきてるのか?」
美鈴は唇を噛み、俯いた。
「違います」
そう答えながら、彼女は一度も振り返らなかった。
運転手も深追いはせず、肩をすくめるように言う。
「お嬢さん、うちの車が何か見てみなよ。向こうは何だい。俺だって飛ばしたいけど、車が許してくれねえ」
言い終えると、彼は一人で乾いた笑い声を漏らした。だが美鈴の表情がまるで変わらないのに気づくと、すぐに笑みを引っ込め、黙ってハンドルを握り直す。
やがて車は、古びたマンションの前で止まった。美鈴は慌てて降り、足早に建物の中へ駆け込む。
角を一つ曲がり、もう追ってきていないと確かめたところで、彼女は灰色にくすんだ壁へ背を預けた。はあ、はあ、と何度も深呼吸する。
図書館の館長へ電話を入れ、午後の休みをもらった。四階まで階段を上り、借りている小さな部屋の扉を押し開ける。
「ぱしゃん!」
陶器が床に落ちて砕ける音。
心臓が跳ね上がり、美鈴は手にしていた荷物を放り出して台所へ駆け込んだ。
江森浅子が流し台の脇に座り込んでいる。箸を握ったまま、肩を上下させて大きく息をしていた。
美鈴はすぐに抱き起こし、外の古いソファへ座らせると、背中をさすって呼吸を整えさせる。
「お母さん、言ったでしょう。ひとりで料理しないで。私が渡した番号で頼めば、ちゃんと届けてくれるんだから」
浅子はようやく息を落ち着け、申し訳なさそうに口を開いた。
「残り物があったのよ。温めるだけでよかったし……わざわざお金を使うことないでしょう。出前は衛生面も心配だしね」
美鈴はむっとしたまま隣に腰を下ろす。
「私、稼げるよ。白崎さんが紹介してくれた仕事、きつくないし、給料もいい。出前くらい、いくらでもないでしょ」
青白い手が、美鈴の手の甲にそっと重なった。浅子が小さく息を吐く。
「美鈴……お母さんが、足を引っ張ってるね」
「またそんなこと言う。私が作るから、ちゃんと座ってて。動かないで」
美鈴は手を引き抜き、台所へ戻った。
包丁を握ると、頭の奥がふわり、ふわりと揺れる。眩暈が波のように込み上げ、刃が滑って指先を切った。
「っ……!」
冷たい息を吸い込み、すぐに水道の下へ手を差し出して流水で冷やす。拭って、何事もなかったようにまた包丁を動かした。
食卓に料理を並べ、箸を取ったとき、テーブルの端に置かれたサプリメントの箱が目に入った。美鈴は眉を寄せる。
「お母さん、これ……どこから?」
浅子の箸が止まる。思い出したように言った。
「ああ、そうそう。亮介が来たのよ。これを置いていって……それにカードまで渡そうとして。受け取らなかったけど」
美鈴は俯いたまま、ご飯を一口かき込んだ。しばらくして、低い声で言う。
「だから言ったのに。白崎さんのものは受け取らないで。こういうサプリ、高いよ。もう十分、助けてもらってる」
浅子は箸を置き、少し身を乗り出して美鈴を見つめた。
「美鈴。亮介はいい子よ。あなたのこと、好きなの……わかってるでしょう?」
胸の奥に重たい石が落ちたみたいに息が詰まる。美鈴は顔を上げず、淡々と食べ続けた。
「わかってる。でも……私には釣り合わない」
「どうして釣り合わないの」
浅子の声が、悔しさを含んで熱を帯びる。
「昔は、あなたの絵が一枚で何十万にもなった。才能に恵まれた江森家のお嬢様だって、北城で知らない人なんていなかったのよ。あの薄情者だって、全国の名門令嬢には見向きもしなかったくせに、あなたを――」
「その話はやめて!」
美鈴が突然声を荒げた。身体が抑えきれずに震える。
必死に呼吸を整え、ようやく声を落として浅子を見る。
「価値があったのは絵じゃない。あの頃の江森家だよ。今は江森グループもなくなった。江森家のお嬢様なんて、どこにもいない」
浅子の目が赤く潤む。
「うちの娘は才能がある。金はどこにいても光るのよ。白崎亮介にだって――」
美鈴は魚の切り身を一つ、浅子の茶碗へ置いた。言葉を遮るように。
「お母さん、もういい。白崎さんは明るくて、きれいで、家柄もいい。私が彼のものを受け取って、気持ちまで受け取ったら……それは恩を仇で返すのと同じ。とにかく、これからも彼のものは受け取らないで」
浅子はそれ以上言わなかった。
重たい沈黙のまま、食事は終わった。
美鈴は無理を押して皿を洗い、部屋へ戻る。浅子はベッドの背にもたれて何かを見ていたが、美鈴に気づくと慌てて紙を背中へ隠した。
この二年、浅子は何度も体調を崩していた。ああいう紙なら、積めば山になるほどある。美鈴にはすぐにわかった。
「検査結果、出たの? 白崎さんが持ってきたの?」
近づきながら、美鈴の心はゆっくり沈んでいく。
いい結果のはずがない。
浅子は紙を背に握り込んだまま、落ち着かない様子で首を振る。
「何でもないわ。正常よ。大したことじゃない」
美鈴は一度視線を逸らし、浅子が油断した瞬間――すっと身を翻して、背中の紙を奪い取った。
目に入った文字に、顔から血の気が引く。
浅子が慌てて手を伸ばしたが、美鈴の様子で、もう見られたと悟ったのか、途中で手を引っ込めた。
二人の間に沈黙が落ちる。
長い間を置いて、美鈴がかすれた声で読み上げる。
「……白血病?」
浅子は焦ったように美鈴の腕を掴んだ。
「美鈴、大丈夫。白崎さんも言ってたのよ。重くないって。薬を飲めば、よくなるかもしれないって」
美鈴は診断書を握る手に力を込めた。指の関節が白く浮く。しばらくして、浅子の隣に腰を下ろし、まっすぐに見つめる。
「お母さん、入院しよう。いくらかかっても治す。あと二年……お父さんが出てきたら、三人で元気に暮らすんだよ」
浅子の声が詰まる。
「行かない……。この何年も病院にお金を落としてきたのに、また治療なんてしたら……あなたを追い詰めるだけじゃない」
美鈴は立ち上がり、淡々と衣類をまとめ始めた。
「お金は私が何とかする。お母さんがいなくなったら……そのときは、私も本当に生きていけない」
浅子を連れて入院手続きを済ませ、白崎亮介とも話をした。薬での治療に加えて、化学療法も受けることになる。もし十分な効果が得られなければ、骨髄移植も考えなければならないという。
あれこれと走り回っているうちに、外はすっかり夜の気配を帯びていた。
浅子は検査を終えると眠りに落ちた。美鈴は白崎亮介のオフィスを出て、病院の廊下の突き当たり、窓辺に立つ。灯りがともり始めた街を見下ろした。
この街は夜になると、どこもかしこも華やかで、目眩がするほど贅沢だ。
毎晩のように遊び明かし、水のように金を使う者がいる一方で、必死に走り回っても、ただ無事に生きることさえ贅沢な者もいる。
美鈴は視線を引き戻し、ズボンのポケットへ手を入れた。
図書館で会ったあの男から渡された名刺。
指先でそれを挟み、書かれた番号へ発信する……。
