第3章
車が桜花大学の近くで停まった。誠さんが私を見て言った。「明日から、俺のルールに従ってもらう」
「はい」。私は頷いた。頭の中では、さっきの「キスは俺とだけ」という彼の言葉がリフレインしていた。冗談だとは言っていたけれど、あの独占欲に満ちた口調は……。
「行け」。誠さんの声は、いつもの冷たい響きに戻っていた。「細かい要件は後で送る」
車を降りた私のポケットには、まだ大輝さんの名刺がある。夜の闇に消えていくマセラティのテールランプを見送りながら、心の中は混乱していた。
シェアアパートに戻った頃には、もう午後十一時を回っていた。ルームメイトの由美は眠っている。私はベッドに腰掛け、スマホを取り出すと、今日の「業務成績」を振り返り始めた。
人違い、キス違い、年収二千万円の仕事を台無しにしかけた……。これはキャリアにおける大失態だ!
だめだ、これ以上プロ意識に欠ける行動は許されない。誠さんが再教育してくれると言ったからには、私のプロとしての姿勢を見せつけなければ!
私はノートを取り出し、デスクライトの下で書き始めた。
『黒石誠 嗜好ファイル - 二日目更新』
気づけば午前二時。私はまだ一心不乱に書き続けていた。
「一、パンケーキは嫌い(検証済✓)、ダブルショットのエスプレッソを好む(コーヒーショップのブレンドを記憶)」
「二、嫉妬深い傾向あり、危険度星五つ(今朝の大輝案件で確定)」
「三、トムフォードのスーツ着用時は機嫌が良く、ジョルジオ・アルマーニの時はより真剣」
由美が眠そうな目でベッドから顔を覗かせた。「麗子、何してるの?もう二時だよ!」
顔も上げずに、私は書き続けた。「『完璧な彼女』ルール策定中。ルールその一、時間厳守、身だしなみを整えること。ルールその二、彼の好みに適度な関心を示すこと」
「ルールその三、彼の所在を決して問いたださないこと。ルールその四、人前では常に完璧な姿でいること」
由美はすっかり目が覚めたようで、ベッドから降りてきて、何ページにもわたる私のノートを覗き込んだ。「あなた、正気?恋愛をビジネススクールの課題みたいに扱ってるじゃない」
「だって、これはビジネス契約だから」。私は淡々と答えた。「今までで最高の報酬の仕事よ。年収二千万円、プロに徹しないと!」
「でも、これは感情の問題でしょ!」由美は呆れ顔だ。「事業計画書を書くみたいに彼氏を分析するなんて!」
私はペンを止め、ルームメイトを真剣に見つめた。「由美、私、まともな恋愛なんてしたことないの。彼女でいる方法なんてわからない。でも、仕事をうまくこなす方法は知ってる。誰かがこの対価を払って私のサービスを求めている以上、最高のプロフェッショナルな体験を提供する必要があるの」
新しいページをめくり、私はまた書き始めた。「ルールその五、二十四時間対応可能であること、ただし適度なプライベートスペースは与える……」
「ルールその六、他の男性との物理的接触は絶対厳禁(特に大輝には要注意!)」
由美は首を振った。「あなた、そのうちおかしくなるわよ」
「ううん、私は完璧な彼女になるの」。私はノートを閉じ、決意を込めて言った。「明日はいよいよ本番よ!」
徹夜の周到な準備を経て、翌日の夜、ついに本当の試練の時が来た。誠さんに連れられて向かったのは、新月市ダウンタウンの金融街にある高級バー『夜桜』。同僚たちの集まりがあるのだという。
きらびやかな照明の中、大手投資銀行のエリートたちが週例の集まりを開いていた。私は誠さんの腕に手を添え、昨夜練り上げた「完璧な彼女コード」の細部まで忠実に実行していた。
タイミングの良い微笑み✓、会話を遮らない✓、優雅な立ち居振る舞い✓、彼が話している間、時折うっとりと見つめる✓。
会話で恥をかかないよう、事前に投資銀行の専門用語まで勉強してきたのだ。
「誠、お前の彼女、完璧すぎるだろ!」同僚の鈴木さんがウィスキーグラスを片手に羨ましそうに言った。「お前を見る目が、まるでアイドルを崇拝してるみたいだぞ!」
私は心の中でメモを取った。『ルール六の検証有効――崇拝の眼差しはボスの見栄えを良くする』
誠さんは一口酒を飲むと、私に目をやった。その表情はどこか複雑だった。「彼女は……とても特別なんだ」
「どうやって躾けたんだ?」別の同僚が冗談を言った。「俺の彼女なんて、仕事中にスマホをチェックするし、荷物は勝手に開けるし、何でもかんでも聞いてくるのに」
「躾けたわけじゃ……」誠さんは不自然に答えた。
私は完璧な笑顔を保ったまま、心の中で記録した。『ルール七追加――スマホはチェックしない、仕事のことは聞かない、完全な信頼とスペースを与える』
その時、バーの入り口から見覚えのある人影が現れた。
カジュアルなネイビーのスーツを着た大輝さんが、友人らしき数人と入ってくるところだった。私たちのグループを見つけると、彼の顔がぱっと喜色に染まった。
「これは奇遇だね!」大輝さんは笑顔でこちらに近づきながら、まっすぐに私の目を見つめた。「兄さん、それに美しい麗子さん」
誠さんの顔が瞬時に曇り、ウィスキーグラスを握る手にわずかに力が入った。「お前、なぜここに?」
「ここは昔から僕の行きつけの一つだよ」。大輝さんは自然に答えると、私に視線を移した。「君に会えるとは思わなかった。美しい女性がいると、夜が華やぐね」
彼はさらに近づき、より優しい声色になった。「麗子さん、一杯おごらせてくれないかな?」
周囲の同僚たちが興味深そうな視線を投げかけ、場の空気がにわかに繊細なものになった。
これはテストだ! 頭の中で警報が鳴り響いた。これは間違いなく、私のプロとしての誠実さを試すテストなのだ!
昨夜の緊急時対応プロトコルに従い、私は丁寧かつきっぱりと答えた。「ありがとうございます、大輝さん。でも、今夜は誠さんと一緒に来ていますので」
大輝さんは一瞬虚を突かれたようだったが、さらに温かい笑みを浮かべた。「もちろん、デート中だものね。ただ、僕は……」
「私たちは一緒なんです」。私はより強く言い切り、無意識に誠さんの腕を掴む力を強めた。「それに、私は誠さんとだけ一緒にいたいですから」
周りの同僚たちは楽しげに囃し立て、鈴木さんは笑いながら言った。「うわぁ、模範的な彼女だな!」
私の腕からの圧力を感じたのか、誠さんの表情は少し和らいだが、その目にはまだ警戒の色が宿っていた。
「承知した」。大輝さんはグラスを掲げたが、その目にはどこか名残惜しさが滲んでいた。「それじゃあ、お二人とも……素晴らしい夜を」
しかし、誠さんを見る彼の目には、一瞬、挑発的な光がよぎった。「兄さんは本当に幸運だな。こんなに忠実な彼女がいて」
二人の兄弟間の緊張感が高まるのを感じ、私はすかさず口を挟んだ。「誠さんは私にとても良くしてくれますから、私が彼に忠実なのは当然です」
私は誠さんを見上げ、恋する乙女の甘さを演出しようと試みた。「ね、ハニー?」
誠さんは私を見つめた。その目にある、言葉にできない感情がさらに複雑さを増した。
集まりが終わり、誠さんの金風区のマンションに戻ったのは、もう十一時近くだった。私はすぐにノートを取り出し、その日の記録を更新し始めた。「本日の業務評価:社交の場での成果良好。競合のオファーを成功裏に拒絶。上司の同僚からの反応も肯定的。ただし、予期せぬ変数出現――大輝」
「お前、本当にこれを仕事だと思ってるのか?」誠さんは堪えきれずに尋ねた。その声には、私には理解できない感情がこもっていた。
「もちろんです」。私は彼を見上げ、目をきらきらと輝かせた。「最高の仕事です!期待値は明確、給料は最高、時間はフレキシブル。それに……」私は一呼吸置いて、「ボス自身も、かなり……素敵です」
私は書き続けた。「本日の誠さんの気分:大輝出現時に軽度の嫉妬。追加の安心サービスが必要か。明日は彼のお気に入りのエスプレッソと軽い話題を準備し、大輝関連の内容は避けることを提案」
誠さんが歩み寄り、私のノートにびっしりと書かれた記録を見た。彼の好み、気分の変化、スケジュール……すべてが研究対象のように分析されていた。
「注:大輝の出現が独占欲を誘発。これは交渉材料になりうる」
「交渉材料?」誠さんの声が急に冷たくなった。「俺がお前の交渉材料だと?」
なぜ彼の機嫌が急に変わったのか理解できず、私はプロとして説明を続けた。「これは市場分析です。感情のトリガーを理解することで、より良いサービスを提供できますから……」
「サービス?」誠さんは私の言葉を遮った。その声には、今まで聞いたことのない怒りが込められていた。「お前は本当に、これをただの仕事だとしか見ていないのか?」
「そういう契約でしょう」私は彼の感情の変化に全く気づかず、当たり前のように言った。「でも、契約とは言え、本当に楽しんているね!大学の本屋でのアルバイトよりずっといいです!それに、やっと素敵な服を着て、高級レストランに行って、上流社会を覗けるんですから……」
誠さんは私の心からわくわくしている表情を見て、まるで私が彼を傷つけるようなことを言ったかのように、急に顔をしかめた。
「じゃあもし……」誠さんは少し震える声で、探るように尋ねた。「もし、もっと高い給料を払う人間が現れたら?例えば、二千五百万円とか」
私は考える間もなく答えた。「それならもちろん転職を考えます!でも、新しいポジションの具体的な要件と福利厚生パッケージを見ないと」。私は一瞬、これが良くない響きかもしれないと気づき、急いで付け加えた。「でも、今の仕事にはとても満足していますから、ボス、私が契約を破る心配はしないでください。私はプロとしての誠実さを持っていますから!」
誠さんの表情が、急にひどく不快なものになった。彼は何も言わず、ただ長い間私をじっと見つめていた。
私はノートの更新を続けた。「明日のアクションアイテム:一、大輝リスク評価レポート作成。二、誠さんの好みをさらに調査。三、長期的な関係維持戦略の策定……」
「明日、彼のお気に入りのカフェに連れて行くことを提案。ダブルショットのエスプレッソを注文し、大輝関連の話題は避け、彼が特別で大切にされていると感じさせることに集中する……」
「満足度:八十五パーセント、まだ改善の余地あり。今夜の嫉妬エピソードは感情的な関与の増大を示しており、これは雇用の安定にとってポジティブな兆候である」
誠さんは突然背を向け、バルコニーの方へ歩いていった。私に背を向けたまま、その緊張した肩のラインから、彼がとても不機嫌なのが見て取れた。
私は少し戸惑いながらも、明日の「業務スケジュール」を真面目に計画し続けた。私はとてもプロフェッショナルに振る舞っているつもりなのに、なぜ彼は不満そうな顔をするのだろう?
「麗子」。誠さんが突然、とても小さな声で言った。「お前は……愛は金で買えると思うか?」
顔を上げると、バルコニーに立つ彼のシルエットが見え、なぜか少し胸が痛んだ。
「愛?」私は考えてみた。「愛とこの契約は別物だと思います。これはビジネスの取り決め。とても明確で、クリーンです。愛は複雑すぎて、私にはわかりません」
誠さんの肩がわずかに震えた。
「でも」と私は続けた。「もし本当に愛があるなら、それはたぶん、お金では買えないんじゃないでしょうか?誰かを本当に愛するっていうのは、その人自身だからであって、その人のお金が理由じゃないはずです」
誠さんが振り返った。その目には複雑な光が宿っていた。「じゃあお前は……誰かが、俺という人間そのものを、本当に好きになることがあると思うか?金のためじゃなく」
彼を見つめながら、私はこの質問がとても重いものだと感じた。彼の目には、今まで見たことのない脆さが宿っていた。
「はい」。私は真剣に言った。「あなたはとても素敵な人です。少し横暴で、少し嫉妬深いところもありますけど、でも……」
「でも、なんだ?」
「でも、あなたの目にはとても優しい光があります。特に、今、私にこの質問をした時」
誠さんは呆然としていた。
そして、私も呆然としていた。
今のは……仕事モードだったのだろうか?それとも……私の心からの言葉だったのだろうか?
