第2章
その夜は眠れなかった。
桜通りにある私の小さなアパートのベッドに腰掛け、スマートフォンの画面を睨みつけた。銀行口座の残高は37,104円。食料品を買うので精一杯で、逃亡資金には到底足りない。
それでも、やるしかなかった。
使い古したスーツケースを引っ張り出し、服を投げ込み始める。私の持ち物はすべて、このスーツケース一つに収まってしまった。貴志の言葉が頭の中で響く。「今度は、どこにも行かせない」
ふざけるな。一度は逃げられたんだ、もう一度だってできる。
航空会社のウェブサイトを開いた。N市からC市へ――51,000円。購入ボタンをクリックする。
「取引は拒否されました」
もう一度試す。結果は同じ。
血の気が引いた。震える指でクレジットカード会社に電話をかける。
「申し訳ございません、竹内さん。不審な利用が検知されたため、お客様のアカウントは凍結されております」
電話を切り、デビットカードを試す。凍結。予備のカードも。凍結。
嘘。嘘、嘘、嘘。
半狂乱でパスポートを探していると、それが聞こえた――ドアを静かにノックする音。
心臓が止まった。もう真夜中を過ぎている。こんな時間にドアを叩くなんて、よほどのことがない限り……。
「玲奈」貴志の声だ。くぐもってはいるが、紛れもなく、そして落ち着き払っていた。「そこにいるんだろう」
私はドアに背中を押し付けた。
「君の忘れ物だ」
ドアの下で紙が擦れる音。私のパスポートの角がのぞいている。
「こんなこと許されない!」私は勢いよくドアを開けた。「私を閉じ込めるなんて!」
薄汚れた廊下に立つ貴志は、高価なコートのせいでひどく場違いに見えた。彼はパスポートをトランプのようにかざす。
「閉じ込めてなどいないよ」彼は招きもせず室内に足を踏み入れた。「君の安全を確保しているだけだ」
「私のパスポートを盗んで? 口座を凍結させて?」
「君がまた後悔するような衝動的な決断をしないように、手を打っただけだ」彼の視線が、荷造りされた私のスーツケースの上を滑った。「今度はどこへ行くつもりだったんだ?」
パスポートを奪い取ろうとしたが、彼は軽々とそれを手の届かない場所へとかざした。
「六年前、君はあまりに急いで出て行ってしまった。今回は、きちんと話をしよう」
「パスポートを返して、貴志」
「嫌だ」
「これじゃ誘拐よ!」
「これは愛だよ」
あまりにこともなげに言うので、叫び出したくなった。「愛がどんなものかなんて、あなたに決めつけられたくない!」
「そうかな? 私はこの六年、愛が一体どんなものなのかを正確に学んできたつもりだが」彼は私の部屋の窓辺へ移動した。「コートを取ってこい」
「あなたとなんてどこにも行かない」
「いや、行くんだ。さもなければ、私が君をここから担ぎ出すことになる」
この人なら、本当にやりかねない。
十分後、私は彼の黒い高級車に乗り、N市の景色が後ろへ流れていくのを眺めていた。高級タワーマンションの前にハイヤーが滑り込むと、胸が締め付けられるような居心地の悪さを覚えた。きらびやかな外観と整然とした玄関前の佇まいに、自分が場違いな存在であるという思いが込み上げてきた。
「いや」と私は囁いた。
「覚えているんだな」
忘れられるはずがない。数えきれない夜を過ごした場所。そして、六年前に彼を置き去りにした場所。
エレベーターはペントハウスに直結しており、私は膝から崩れ落ちそうになった。
何も変わっていなかった。
リビングルームは、私が出て行ったときのまま。ソファの上には私のクッション。飾り棚には私の本。私が世話していた、半分枯れかかっていた多肉植物まで――今は青々と茂っている。
「取っておいてくれたのね」私は息をのんだ。
「すべて、取っておいた」
キッチンには、私のお気に入りのマグカップがまだ食器棚に収まっていた。寝室には、私の服がまだクローゼットに掛かっている。
貴志が部屋に入ってきた途端、私は一瞬で六年前へと引き戻された。
「玲奈、行かないでくれ」貴志は私の手をつかんで懇願した。「やり直せる。私がすべて変えるから」
「あなたには分からない。私は行かなくちゃいけないの」
「なら私も一緒に行く。君が行きたいところならどこへでも」
「だめよ、貴志。あなたは来られない」
そのとき彼は膝から崩れ落ちた。あの誇り高い男が、絶望に打ちひしがれて。「玲奈、お願いだ。愛してる。何でもするから――」
「これ以上、辛くさせないで」
彼の泣き声に送られながら、私は部屋を出た。
「あなたは私に、行かないでと懇願した」私は囁いた。
「ああ、したよ」貴志の声は今や違っていた――硬く、抑制されている。「哀れな子供みたいに、膝をついて乞い願った」
「哀れなんかじゃなかった――」
「哀れだったさ。だが、もう俺はあの頃の男じゃない、玲奈。今回は、懇願したりしない。なぜなら今の俺には、君をここに留めておく力があるからだ」
その違いはあまりにも明白で、恐ろしかった。六年前の貴志は脆かった。だが今の彼は、世界を意のままに曲げる術を学んだ男のように、絶対的な確信を持って立っている。
「あなた、変わったわね」私はバルコニーのドアへと後ずさりながら言った。
テラスに出ると、見慣れた青葉公園の景色が眼下に広がっていた。
貴志が後を追う。「この六年、どう過ごしてきたか分かるか?」
私は答えなかった。
「毎晩、俺はまさにここに座っていた。君がいつかあのドアを通り抜けて帰ってくるのを想像しながら。俺のもとへ」
「貴志……」
「探偵を十二人雇った。君の養母が入院していた病院の経営権も手に入れた。C市にいる君のことも、安全を確認するために人に見張らせていた」
「あなたにそんな権利はない」
「権利ならある。君は俺のものだ、玲奈。昔からずっと、俺のものだった」
「私は自分の意志で出て行ったのよ!」
「君は逃げることを選んだ。だが、考えたことはあるか? なぜ俺が君を行かせたのか。俺ほどのリソースを持つ人間が、なぜもっと早く君を見つけ出さなかったのか」
冷たい恐怖が腹の底に溜まっていく。「どういうこと?」
「君の居場所は一週間もしないうちに分かっていた。いつでも好きな時に、力ずくで連れ戻すことだってできた」
「じゃあ、どうしてしなかったの?」
「君を繋ぎとめるに値する男になる必要があったからだ。君が捨てた男は弱かった。無力だった」
この力強く危険な男が、ふいにまた脆く見えた。
「今の俺なら、君を傷つける者は誰であろうと破滅させられる。会社を買い、キャリアを潰し、人間を消すことだってできる。だが、君への愛だけは破壊できない。それだけは、俺の力ではどうにもならないんだ」
私が止める間もなく、貴志はウッドデッキのバルコニーに膝をついた。
「お願いだ」彼は私の夢にまで出てきた瞳で私を見上げ、囁いた。「もう一度俺を置いていかないでくれ。頼む――弱かった昔の男としてじゃない、今の俺として。君を手放すくらいなら、何もかも捨ててもいい。だからこそ、こうして頼んでいるんだ」
涙が私の頬を伝った。「貴志、立って」
「君が約束してくれるまで、立たない」
「できない――」
「六年前、何があったにせよ、君が出て行った理由が何であれ――俺たちなら乗り越えられる。一緒に」彼の手が私の手を求め、その唇へと運んだ。「俺は無敵になるために六年を費やした。だが、君の前では今も無力だ。これからもずっと」
私は見下ろした。この力強く、執念深く、聡明な男が、まるで私が彼の救いであるかのように、私の前に跪いている。一部の私は、悲鳴をあげて逃げ出したいと願っていた。しかし、それよりも大きな部分が、彼の隣にしゃがみこみ、二度と離れたくないと願っていた。
ええ、貴志。まだあなたを愛しているわ。
そして、それこそが、私がもう一度あなたのもとを去らなければならない理由なの。
