第1章
全身を叩き潰されるような激痛だった。
父の診療所の駐車場で、私はくの字に折れ曲がった。大きなお腹を抱え込むと同時に、脚を伝って生温かい液体がどっと流れ落ちていく。こんなの、まだのはずなのに。予定日まで、あと二週間もある。やっと、ほんの少しだけ、自分の人生を立て直せそうな気がしてきた、まさにこのタイミングでなんて。
「どうしよう、どうしよう……しぬ!」途切れ途切れの喘ぎとともに言葉が漏れる。震える手からスマートフォンが滑り落ちた。
駆け寄ってきた女性は、着ているスクラブからして看護師さんだろう。「あなた、大丈夫? 陣痛?」
陣痛。その言葉は、平手打ちのように私の頬を打った。心の準備ができていなかった。確かに入院バッグの準備はしてあったけれど、もっと時間があると思っていたのだ。二十三歳で母親になるための、心の準備をする時間。父親が誰なのかさえ分からないなんて、みんなにどう説明すればいいのか考える時間。
いや、それは嘘だ。父親が誰なのか、本当はちゃんと分かっている。ただ、誰にも言えないだけで。
「病院に……行かないと」荒い息の合間に、私は声を絞り出した。「白桜総合病院です」
救急車の中は、サイレンの音と痛みで記憶が曖昧だ。救急隊員は次々に質問を投げかけてきたが、私はほとんど意識を集中できなかった。名前は? 葦原風花。年齢は? 二十三歳。予定日は? まだ二週間先。どうやら、この赤ちゃんは違う計画を立てていたらしい。父親は? そこで、私は口を閉ざした。
十ヶ月も話していない相手がこの子の父親だなんて、どう説明すればいいのだろう。
病院は、統制された混沌といった様子だった。看護師たちが目まぐるしく私をストレッチャーで運び、煌々と明るい廊下を駆け抜けていく。
誰かが分娩室へ運ぶよう、鋭い声で指示を飛ばしている。何もかもがあっという間だった。こんなはずじゃなかった。頭の中では、両親に電話して、もしかしたら白桜港から姉に車で来てもらえるかもしれない、なんて考えていたのに。
それなのに、現実はたった一人。怖くて、今にも赤ちゃんが生まれそうで。
「風花さん、私が真嶋です。しっかり診ますから、安心してね」分娩台に移されながら、女性の声が聞こえた。「帝王切開に切り替えます。赤ちゃんが苦しがっているから、もう待てないの」
帝王切開。看護学校で習った知識はあったけれど、いざ自分が患者の身になると、まるで別物だった。 準備が進められる間、心臓が激しく鼓動し、 パニックで、説明される処置の内容はほとんど耳に入ってこなかった。
「麻酔は嵐峰先生に入ってもらいます」と誰かが言った。「うちで一番の腕利きよ」
嵐峰。その名前。まさか、そんなはずはない。白桜市には、同じ名字の医者なんて何人もいるはずだ。何の意味もない。
けれど、麻酔科医がドアを抜けて入ってきた瞬間、私の世界はぐらりと傾いた。
煌。
嵐峰煌先生が、手術着姿でそこに立っていた。青いキャップで覆われた黒髪。忘れようと必死だった緑色の瞳は、今はひたすら理知的で、プロフェッショナルな光を宿していた。記憶の中の彼より背が高く、肩幅もがっしりしている。纏う雰囲気もどこか違って見えた。前よりも自信に満ちている。会わなかった十ヶ月の間に、彼はすっかり大人になったみたいだった。
私が彼から逃げ出して、十ヶ月。
彼はタブレットに視線を落とし、おそらく私のカルテを確認しているのだろう、まだ私の顔には気づいていない。
顔を背けて、目を閉じていれば、彼も私だと気づかないかもしれない。このまま、彼に知られずにこの場を乗り切れるかもしれない。
だが、彼が顔を上げた。
手術室の向こう側で、視線が交錯した。彼の表情に、はっきりと認識の色が浮かぶのを、私は見ていた。ほんの一瞬、彼の足取りがたたらを踏む。プロフェッショナルな仮面が滑り落ち、その下から剥き出しの、脆い何かが顔を覗かせた。
「風花……?」彼の声は柔らかく、どこか不確かで、私の胸を締め付けた。
声が出ない。息もできない。こんなの、嘘だ。白桜市に数ある病院の中で、呼び出される麻酔科医がよりどりみどりいる中で、どうして彼でなければならなかったのだろう。
「お知り合い?」真嶋先生が、私たちを見比べて尋ねた。
先に立ち直ったのは煌だった。「白桜大学で一緒でした」彼の声は、慎重に感情を排していた。「看護学部と医学部で」
それは、当たり障りのない言い方だった。私たちはただ大学で一緒だっただけじゃない。もっと、ずっと深い関係だった。でも、医療従事者に囲まれたこの部屋で、わざわざ訂正する気にはなれなかった。
「世間は狭いわね」真嶋先生はにこやかに言った。「さて、これは緊急の帝王切開よ。お母さんは妊娠三十八週」
煌は頷き、私の隣に移動した。硬膜外麻酔を準備する彼の手は安定していたけれど、私の背中に触れなければならなくなった時、彼の顎がぐっと引き締まるのが分かった。プロフェッショナル。臨床的。でも、彼から放たれる緊張感は肌で感じ取れた。
「少しチクッとしますよ」耳元で、彼の声が囁いた。かつて暗闇の中で私の名前を囁いたのと同じ声だ。「動かないでください」
私は唇を噛みしめ、涙がこぼれないように必死でこらえた。痛みからではない。圧倒的な記憶の奔流に、押し流されそうだったからだ。いつの間にかキスばかりしていた勉強会。夢を、不安を、未来を語り明かした夜。卒業パーティーの後、まるで私が宝物であるかのように抱きしめてくれたこと。
そして、そのすべてを私が翌朝、めちゃくちゃに壊してしまったこと。
「はい、終わりました」煌は一歩下がりながら言った。「これで、胸から下は何も感じなくなるはずです」
手術が始まった。私は、ほんの数フィート先に立つ男ではなく、真嶋先生の励ますようなおしゃべりに集中しようと努めた。けれど、煌の存在が、物理的な重みとなってのしかかってくる。彼がモニターの何かを調整するたび、私のバイタルをチェックするたび、過剰なまでに彼の存在を意識してしまう。
しぬ!これは私の最悪の悪夢であり、同時に密かな願いでもあった。何ヶ月もの間、もし彼に再会したら何を言おうか、と考え続けてきた。どうして私が去ったのか、どう説明しようか、と。
まさか、こんな形になるなんて、想像もしていなかった。
「もうすぐですよ」真嶋先生が言った。「頭が見えてきました」
私の赤ちゃん。もうすぐ、私の赤ちゃんに会える.......
その思いは圧倒的で、他のすべてを頭から追い出すはずだった。なのに、私は煌を盗み見るのをやめられなかった。彼がレーザーのような集中力でモニターを見つめる様子や、その手が熟練の正確さで動く様から、目が離せなかった。
彼は、夢見ていた通りの自分になっていた。医者。命を救う人。彼ならそうなると、私はずっと前から知っていた。
「男の子ですよ!」真嶋先生が告げた瞬間、泣き声が響いた。私のじゃない。私の頬にも涙は伝っていたけれど。赤ちゃんの、力強く、健康的で、完璧な泣き声だった。
手早く体をきれいにされた赤ちゃんが、私の胸の上に置かれた。この小さくて、しわくちゃで、美しい小さな命は、私の半分と、そして、彼の半分。私は煌の方を見た。彼は、ぴたりと動きを止めていた。
赤ちゃんが、目を開けた。私の心臓が、止まった。
緑色の瞳。煌の瞳だった。見間違えようもなく、似ていなければいいなんていう希望や見せかけが通用する余地もなかった。
煌は、読み取れない表情で赤ちゃんを見つめていた。衝撃、だろうか。認識、それは間違いない。彼は頭の良い人だ。計算はできる。
「可愛いわね」看護師の一人が言い、私は声も出せずに、どうにか頷いた。
