第2章

百合子視点

「ええ、そうかもしれないわね。私は何もかも失うのかもしれない」

私は彼の方へ歩み寄る。何年ぶりだろう、彼の目をまっすぐに見つめたのは。

「でも、あなたの隣で透明人間になるよりはずっとましよ。この五年で、私が一番孤独を感じたのがいつだか分かる? あなたが深夜まで働いていた時じゃない。記念日を忘れた時でもない。パーティーで私を無視した時ですらないわ」

目の奥が熱くなるのが分かる。でも、泣くものか。

「ベッドであなたの隣に横たわっている時よ。たった二十センチの距離。なのに、私たちの間には広大な海が広がっているように感じた。あなたは一度も、本当の意味で私を見てくれなかった。誠一郎さん。私はずっと、ただの道具だったのよ」

彼は私を見つめる。滲んだ化粧、しわくちゃのドレス、書斎に裸足で立つ私を。

だが、私の瞳はこの五年で一番澄み切っていた。そして、決意に満ちていた。

初めて、彼は私が次に何をするか予測できずにいた。

彼はカフスを直す。ビジネスモードへの切り替えだ。「いくら欲しい?」

「え?」

「慰謝料だ。言い値でいい。五億円? 一億円か?」

どこからか笑いがこみ上げてきた。涙が滲むほど激しい笑いだった。

「ねえ、誠一郎さん。それがあなたの問題点なのよ。何にでも値段がつくと思ってる」

「じゃあ、何が欲しいんだ」

「千万円」

彼は完全に動きを止めた。「なんだと?」

「千万円よ。それがこの五年で私が稼いだ金額。飾り物の妻としての値段として。年収二百万で五年分。妥当でしょ?」

誠一郎は何億円かを予想していた。もしかしたら会社の株も。現在の離婚法は妻に有利だ。彼はその交渉に備えていた。

だが、千万円? それは、私たち二人にとって侮辱的な金額だった。

「百合子、馬鹿なことを言うな。もっと貰えるはずだろう」

「私が稼いだ分だけでいいの。それ以外は全部あなたのもの。家も、車も、宝石も、株も。全部持っていって」

「気でも狂ったのか」

「いいえ。ただ、身軽になりたいだけ」

私は離婚合意書を取り出し、彼の机の上に置いた。

「サインして、誠一郎さん。あなたにとっては、これまでで一番簡単な取引になるわ」

彼はペンを手に取る。その手が署名欄の上で止まる。まる三秒が過ぎた。

私はその躊躇いに気づく。この五年で、誠一郎がためらうのを見たのは初めてだった。

だが、それは三秒しか続かなかった。

ペンが下ろされる。彼の署名が、滑らかな一筆で紙面を走った。

彼は書類を私の方へ押し返す。氷のように冷たい声。「弁護士から連絡させる」

私は書類を受け取る。「ありがとう」

ドア際で、彼が何かを言うのが聞こえた。声が小さすぎて聞き取れない。

誠一郎は彼女が去っていくのを見つめる。ペンを握る指は、関節が白くなるほど力が入っていた。

彼が言ったのは、「すまなかった」という言葉だった。

だが、もう手遅れだと彼は知っていた。

二日後、私は荷造りを始めた。クローゼットのブランド服はすべて残した。手に取ったのは、数枚のTシャツとジーンズだけ。宝石箱はドレッサーの上に置いたまま、開けもしなかった。

古い生活から持ち出した唯一のもの。それは五年前のバレエシューズだった。

三カラットのダイヤモンドの指輪を、大理石のカウンターの上に置く。太陽の光がそれを捉え、部屋中に冷たい光を投げかけた。

このペントハウスを最後に見渡す。空調管理された完璧な空間。常に塵ひとつない。

けれど、一度も我が家だと感じたことはなかった。

ドアがカチリと音を立てて閉まった。

桜川区のアパートは月千八万円。1DK。黄ばんだ壁、きしむ床、窓の外には非常階段とレンガの壁が見える。

広さは中央区の部屋の十分の一くらいだろうか。

でも、初めて、私は息ができた。

スーツケースを床に下ろし、腰を下ろして、この小さな空間を見回す。

スーツケースの中、一番上にあったのは、あのバレエシューズだった。

ピンクのサテンはほとんど灰色にまで色褪せている。トウボックスは石のように硬い。あの『ジゼル』の公演の時のタグがまだついたままだ。

私はそれを手に取る。すり減ったポワントを指でなぞった。

六年前、私はリフトから落下した。足首の靭帯を断裂。医者からは二度と踊れないと宣告された。あの瞬間、すべてが終わったように感じた。

そこへ誠一郎さんが現れた。父の会社を救い、私に不自由ない暮らしを与えてくれた。私は新しい生きがいを見つけたと、そう思った。良き妻となり、子供を育て、上流社会でまっとうに生きていく。

でも、私は間違っていた。

私はダンスを失っただけじゃなかった。私自身を失っていたのだ。

外を電車がごうと音を立てて通り過ぎる。海浜市に夜が訪れ、街の向こうで灯りが瞬き始める。

私は立ち上がり、バレエシューズを窓辺に置いた。最後の光を受け、それらは淡く輝いている。

『まだ終わりじゃないのかもしれない、百合子。もしかしたら、これは始まりなのかもしれない』

明日が何をもたらすかは分からない。誠一郎さんの財力なしで、もう一度立ち上がれるかどうかも。

でも、少なくとも今は自由だ。

六時、アラームが鳴る。完全に目が覚める前に、私はもう身を起こし、小さなアパートを見回していた。

立ち上がると肩が痛む。電車の揺れがまた窓を震わせる。キッチンへ歩き、冷蔵庫を開ける。半分残った牛乳パック。二枚の食パン。それが朝食だ。

スマホを確認する。銀行残高、四十二万円。

離婚届にサインしてから三週間。誠一郎の弁護士が千万円を振り込んできた。三ヶ月分の家賃を払い、生活必需品を買った。今では日に日に数字が減っていくのを見つめている。定職を見つけるまで、これで何とかしなければ。

ぱさぱさのパンをかじり、バックパックを掴んで外に出る。

着いた時には、コーヒーショップはもう満席だった。店長の東さんは、紙やすりのような声をした、忍耐力ゼロの四十代の男性だ。

「百合子! 七番テーブルがラテだ! 急げ!」

私はトレイを掴む。手が微かに震える。カップが傾く。立て直そうとする。

コーヒーが客の白いシャツに飛び散った。彼は飛び上がり、顔を真っ赤にする。

「ふざけるな! これがいくらすると思ってるんだ!」

私は凍りつく。「申し訳ありません。クリーニング代はお支払いします」

彼はテーブルに千円札を叩きつけた。「みじめなチップなんかいらねえよ。店長を呼べ!」

東さんが嵐のようにやってくる。「百合子、今週もう3回目だぞ! いつもぼーっとしてるじゃないか。集中できないなら、別の仕事探したらどうだ」

カウンターの向こうで、他の店員たちが囁き合う。

「聞いた? 彼女、昔は金持ちと結婚してたんだって」

「ああ、それで今じゃあの様か。捨てられたんだろうな」

私は唇を強く噛みしめ、うつむいたままテーブルを拭く。爪の下にはコーヒーの染みがこびりついている。

二時、シフトが終わる。東さんはくしゃくしゃの千円札と、侮蔑に満ちた視線を私に投げつけた。

「明日は遅れるなよ」

外に出ると、スマホが震えた。テキストメッセージだ。

「今夜、鳳凰座劇場で舞台スタッフが必要。八千円。来るか?」

私は返信する。「はい」

劇場は小さく、古びていた。舞台監督の誠さんは、都合がつくときに雑用を回してくれる。今夜は小道具や舞台装置を運ぶ仕事だ。作業が終わる頃には、背中が悲鳴を上げていた。

「助かったよ、百合子。命の恩人だ」誠さんは私に現金八千円を手渡した。

私はお金を受け取り、頷く。彼は鍵をかけて去っていった。

劇場は静まり返る。ただ一つの舞台照明だけが、まだ燃えるように輝いている。

私は客席に立ち、がらんとした舞台を見つめる。そう決めるより先に、足が動いていた。木の床がきしむ。

私が舞台の中央に立ってから、六年が経っていた。

私は口ずさみ始める。『瀕死の白鳥』。私が最後に演じた曲だ。腕が持ち上がり、空気を切り裂く。身体が覚えている。一つ一つの動きが、まだそこにあった。

グラン・ジュテ。アラベスク。そしてフェッテ・ターン。

鋭い音が響く。右足首が絶叫する。私は崩れ落ち、足を抱えて丸くなった。

涙がこぼれる。痛みからではない。すべてがどうしようもなく絶望的で、その涙だった。

どれくらいそこに横たわっていたか分からない。涙が乾き、夜の冷気が骨まで染み込んでくるには十分な時間だった。

私は身体を押し上げ、足を引きずりながら裏口へ向かう。ドアが開く。冷たい夜の空気が顔を打った。

一週間後、私は芸術文化センターの前に立っていた。噴水が夜空を背景に輝いている。ポスターが貼られていた。

『十字大悟 新作『灰燼(かいじん)』世界初演』

十字大悟。芸術選奨文部科学大臣賞を五度受賞。モダンバレエ界の革命児。生ける伝説だ。

チケットは八千五百円から。今週のシフトで稼いだ一万四千六百がポケットに入っている。

それでも私はチケットを買った。

劇場は美しかった。私は最後列の隅の席に座り、ブランド服と高価な香水に囲まれていた。

照明が落ちる。音楽が始まる。ダンサーたちが舞台に立つ。

これはクラシックバレエではない。お姫様も、おとぎ話も出てこない。ダンサーたちはもがき、倒れ、そして再び立ち上がる。現代音楽がクラシックの弦楽器と衝突する。壊れていながら、同時に美しい。

一つ一つの動きが、何かを引き裂き、そして縫い合わせているように感じられた。

私は暗闇の中で立ち尽くし、涙が頬を伝っていた。

これが芸術だ。完璧なテクニックではない。本物の痛みだ。

照明が点くと、誰もが総立ちになっていた。私は目を拭い、観客と共に拍手をした。

彼に会いたい。どうやってこれを創り上げたのか、知らなければならない。

観客の波が出口へと流れていく。私もそれに続くが、この場所は巨大だ。人々が私を押し退けていく。顔を上げると、私はいつの間にか舞台裏の廊下に迷い込んでいた。

廊下は迷路のようだ。私は道に迷い、次の角を曲がれば誰かに会って出口を教えてもらえるだろうと期待していた。

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