第2章
松原南が救急処置室の前に駆けつけたときには、全身が冷や汗でびっしょりだった。医師の袖をつかんだ手も震えが止まらず、声までかすれている。
「先生、クルミはどうなんですか? 娘は……娘は無事なんですか」
医師はマスクを外し、重い口調で告げた。
「お子さんの状態はかなり深刻です。現時点での診断では、先天性の腎形成異常が疑われます」
腎形成異常。
その言葉は落雷のように松原南の頭上へ叩きつけられた。耳の奥がぶうんと鳴り、目の前がぐらりと揺れる。
顔からさっと血の気が引き、膝が崩れ落ちそうになる。
「なんですって……腎形成異常……?」
どうして先天性なの――。
医師はとっさに彼女の体を支えた。
「現時点で最善と考えられるのは腎移植です。ご家族の方は至急、入院手続きを進めてください。費用もご用意を。今後の治療費はかなり高額になります。少なくとも50万は必要ですし、適合する腎提供者も探さなければなりません」
50万。
松原南は唇をきつく噛んだ。取り乱すなと自分に言い聞かせ、そのまま階下の会計窓口へ走る。
クルミが助かるなら、50万どころか、500万でも5000万でも、何としてでも工面してみせる。
「お願いします、支払いを」
差し出したのはキャッシュカード。
4年かけて貯めた、たったひとつの蓄えだった。江村成宏を驚かせたくて、生活費を切り詰め、少しずつ、本当に少しずつ残してきた金だ。
それが今、ようやく役に立つはずだった。
「――失礼します」
端末に通した職員が、すぐに顔を上げる。
「残高不足です。カードが凍結されています」
凍結……?
松原南はその場で硬直した。頭の中が真っ白になる。
「そんなはずありません! 私のカードです、どうして凍結なんて……! もう一度、お願いします。もう一度だけ試してください!」
「確かに凍結されています。主契約のカード側から紛失停止の申請が出ています」
職員はカードを返しながら、わずかに同情のにじむ目を向けた。
主契約。
このカードは、江村成宏名義の家族カードだった。
家計のために必要だから――そう言って、あのとき彼が持たせてくれたものだ。
ふいに、松原南は笑った。
次の瞬間、涙が堰を切ったようにあふれ出す。
江村成宏――あなた、本当にここまでやるの。
離婚協議書に署名してから、まだ30分も経っていない。
それなのに、もう待ちきれなかったかのようにカードを止めた。
追い出すだけじゃない。
あの人は、自分たち母娘を追い詰めて、死ねと言っているのと同じだ。
後ろでは列に並んだ人たちが苛立ったように急かし始める。
松原南は爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめた。けれど、痛みはまるで感じなかった。
心が死んでしまえば、体の痛みなんてもうどうでもいい。
彼女は隅へ移動し、スマートフォンを取り出して江村成宏の番号を呼び出した。
憎い。
殺してしまいたいほど憎い。
それでも、クルミはいま救急処置室で助けを待っている。
娘のためなら、あの男に頭を下げるしかない。
プルルル――プルルル――
長く呼び出し音が鳴り続けたが、出ない。
松原南はあきらめきれず、もう一度かける。
今度は、つながったと思った瞬間に切られた。
さらにかけ直す。
だが、今度は電源が落とされていた。
松原南の唇に、自嘲めいた笑みが浮かぶ。
絶望。
逃げ場のない絶望が、空も地も埋め尽くすように彼女をのみこんでいく。
あの男は今ごろ、白原明子を抱きしめているのだろう。
ようやく自分のような役立たずと足手まといを切り捨てられたと、祝杯でもあげているのかもしれない。
自分の実の娘が病床で生死の境をさまよっていることなど、あの人はきっと気にも留めない。
「江村成宏……ひどい……どうして、ここまで……」
松原南は膝を抱え、そこへ顔をうずめた。
肩が激しく震える。
この4年、彼と一緒に苦労してきた。
起業の苦しい時期も支え続けた。
自分の手も、才能も、全部差し出した。
その果てが、これなのか。
母は昔から言っていた。
男を信じすぎるな。最後に傷だらけになるのは自分だと。
あのころは意味がわからなかった。
けれど今となっては、愛した男が身をもって教えてくれたようなものだ。
忠告を聞かなかった代償――それがこれだった。
そのころ、病院の反対側では、数人の護衛に囲まれたひとりの男が大股で歩いていた。
すらりと背が高く、仕立てのいい黒のオーダースーツをまとっている。彫りの深い端整な顔立ち。近寄る者を拒むような、張りつめた禁欲的な気配が全身からにじんでいた。
藤原傑。
E市で絶大な力を持つ藤原家の現当主。
この街における、真の名門中の名門だった。
藤原傑は祖父の見舞いを終えたばかりで、機嫌がよくなかった。眉間には冷え切った気配がうっすらと宿っている。
小児病棟の前を通りかかったとき、胸をえぐるような泣き声が耳に届き、彼の足がわずかに止まった。
視線の先、廊下の隅には、ひとりの女が小さく身を縮めていた。
今にも壊れそうなほど細い体を震わせ、声を押し殺しながら泣いている。
そのとき、看護師たちがベッドを押して慌ただしく駆け抜けていった。
「急いで! 血液内科へ!」
藤原傑は無意識に、そのベッドへ目を向ける。
横たわっていたのは、小さな女の子だった。
顔色は白く、鼻には酸素チューブが入っている。
たったひと目。
その瞬間、藤原傑の凪いでいた瞳が鋭く揺れた。
次いで、ぴくりと眉が跳ねる。
彼は足を止めたまま、少女の顔を見つめた。
この目元は……。
あの子、どうしてあんなに見覚えがある……?
後ろに控えていた秘書が、様子をうかがうように声をかける。
「藤原若様、いかがなさいましたか」
しばしの沈黙のあと、藤原傑は低く言った。
「行くぞ」
松原南は男の存在に気づきもしなかった。まして、この場で何が起きていたかなど知るはずもない。
彼女は鼻をすすり、どうにか感情を鎮める。
カードは止められた。
なら、どこから金を作ればいい……?
もう、母が遺したあれを手放すしかないのだろうか……。
