第3章

夜、松原南は閉店間際のショッピングモールへ駆け込み、中にあるブランド品の買取店を見つけた。

母がかつて持たせてくれた嫁入り道具。

それは10カラットのサファイア。カルティエのディレクターが自らデザインした、オーシャンハート。

昔、江村成宏が起業したばかりの頃、これを売って開業資金にしようと言われたことがある。

けれど、どうしても手放せなかった。

今となっては、あのとき頷かなくて本当によかったと思う。

松原南はカウンターの前に座り、鑑定士がルーペ越しにサファイアを念入りに見つめる様子を、固唾をのんで見守っていた。

母が遺してくれた、たった一つの形見。

でも今は、クルミのためなら。

石ひとつどころか、自分の命だって売れる。

「色も透明感も悪くありませんね……」

鑑定士が口を開いた、そのときだった。

「まあ、なんて綺麗なサファイアなの!」

甘ったるく甲高い女の声が、横から割り込んでくる。

聞き覚えのある声。

ついこの前、耳にしたばかりだ。

思い出すだけで吐き気がする。

松原南の背筋がぴんと強張った。

振り向くと、白原明子がエルメスのバッグを提げ、ハイヒールを鳴らして入ってくるところだった。全身を今季物のオートクチュールで固めていて、白いTシャツ姿の松原南が道化のように見える。

最悪の鉢合わせだった。

白原明子は今さら気づいたように、大げさに口元を押さえた。

「まあ、南さん? どうしてこんなところにいらっしゃるの?」

松原南は相手にせず、鑑定士へ向き直る。

「すみません、急いでいるので早くお願いします」

「そんなに急いで、どうするの?」

白原明子は数歩で距離を詰めると、サファイアをひょいと取り上げ、照明の下で揺らして見せた。

「何? 南さん、とうとう家財まで売りに出すの? お金、ないの?」

松原南は言い返さず、手を伸ばす。

「返して!」

だが左手がうまく利かず、奪い返すどころか、よろめいて転びかけた。

白原明子は軽やかに身をかわす。

「南さん、今のご自分の姿、ちゃんとご覧になったら? 立っているのもやっとなのに、私と張り合えると思ってるの?」

その言葉に込められた二重の意味など、松原南にも痛いほどわかっていた。

宝石だけじゃない。デザイン画も奪えないし、男だって同じだと――そう言いたいのだ。

松原南は奥歯をきつく噛み締めた。

「白原明子、ここは公共の場よ。言葉を選んで」

「言葉を選ぶ?」

白原明子はよほどおかしいことを聞いたと言わんばかりに、くすくすと肩を震わせた。

「追い出された捨てられ妻のくせに、私にそんなこと言える立場? 松原南、よく考えなさいよ。今、お金欲しさに必死で物を売ろうとしてるのは、あなたのほうでしょう」

そう言いながら、オーシャンハートを指先で弄ぶ。

「この石、私が気に入ったわ。ねえ、彼女がいくらって言ったの? その倍、出す」

鑑定士がすぐに答える。

「こちらのお客様は100万円でのご希望でして……」

「じゃあ200万」

白原明子は何でもないことのように金額を口にし、それから挑発的に松原南を見た。

「ただし、条件があるけど」

松原南の全身がすっと冷えていく。

嫌な予感しかしない。

案の定、次の瞬間。

白原明子はスマホを取り出し、録画モードを起動した。レンズがまっすぐ松原南の顔へ突きつけられる。

「今ここで跪いて、カメラに向かって三回言いなさい。『私は盗作女です。白原明子に申し訳ありません』って。そうしたら、この200万、恵んであげる」

200万。

その金があれば、クルミに適合する腎臓を探せる。

手術も受けさせられる。

その先の拒絶反応の治療だって、どうにかなるかもしれない。

けれど――盗作?

あの頃、デザイン画を盗んでコンペに出したのは白原明子のほうだ。

それなのに今さら、自分が盗作者だと認めろというのか。

松原南は目を閉じ、長く息を吐いた。

跪くのか。

それとも、跪かないのか。

ここで膝を折れば、二度と立ち上がれない。

自分の名前は、この先ずっとデザイン業界の恥として刻まれる。

でも、跪かなければクルミはどうなる?

「跪かないの?」

白原明子は松原南が動かないのを見て、笑みをわずかに冷やした。

「言っておくけど、腎臓移植ってすごくお金がかかるんでしょう? お金のないあなたが、どうするのかしら」

移植――?

クルミの先天性の腎形成異常のことを知っているの?

松原南はばっと顔を上げた。目の底が真っ赤に燃える。

「あなた……ずっと人をつけてたの?」

「察しがいいのね」

白原明子は鼻で笑った。

「で、どうするの? 跪く? 数えるわよ」

「一」

松原南の膝が小刻みに震える。

「二」

白原明子はスマホを構えたまま、今か今かと醜態を待ちわびている。

松原南は目を閉じた。

涙が頬を伝って落ちる。

クルミ……ごめんね……

ママ、あなたのためなら何だってしたい。

でも、これだけは……認められない……

「どうやら本当に、このお金はいらないみたいね」

いつまで経っても動かない松原南に、白原明子はつまらなそうに唇を尖らせ、スマホをしまった。

「なんだか興が削がれちゃった。もう自分で買う気もしないわ」

次の瞬間、彼女は松原南の目の前で電話をかけた。

しかも、わざとスピーカーにする。

「もしもし、成宏くん?」

白原明子の声は一瞬でねっとり甘くなり、さっきまでとは別人のようだった。

「今ね、モールで素敵なサファイアを見つけたの。でも南さんもここにいて、私に買わせたくないみたいでぇ……」

電話の向こうで、短い沈黙。

それから、男の冷え切った声が響いた。

「欲しがってる? あいつが何で買うんだよ。あの役立たず、全財産かき集めても1000円もないだろ」

一言ごとに、胸がずくずくと痛んでいく。

江村成宏。

七年も愛した男が、これだ。

他人の前で、容赦なく彼女の尊厳を踏みにじる。

落ちぶれた姿を笑い話にする。

白原明子は得意げに松原南へ目をやり、さらに甘えた声を重ねた。

「でもぉ、私ほんとに欲しいの。それにこれ、松原おばさまの形見なんでしょう? お姉さん、売りに来たくせに、私には売りたくないみたいで……」

「欲しいなら買え」

江村成宏はその言葉を遮り、いかにも甘やかな声で言った。

「お前が喜ぶなら、店ごと買ってもいい。上乗せ分は俺が全部出す」

買え。金は俺が出す。

松原南の体が止めようもなく震えた。

心臓が裂けそうに痛い。

思えば江村成宏は、彼女に高価な物をほとんど何一つくれなかった。

唯一のダイヤの指輪ですら、何日もせがんで、ようやく買ってもらったものだった。

笑える。

元夫が浮気相手を喜ばせるために、彼女の目の前でこんなことを言うなんて。

どうしてあんな男を愛してしまったのだろう。

どうして、あんな薄情な男に人生を懸けたのだろう。

白原明子は満足そうに通話を切り、手にしたブラックカードをひらひらと振った。

「聞いたでしょう? 成宏が言ったの。私が欲しいなら何だっていいって。松原南、あなたに何ができるの? このサファイアはありがたく私がいただくわ」

そう言ってカードを鑑定士に放る。

「会計して。包んでちょうだい」

松原南はその場に立ち尽くしたまま、ふっと笑った。

口元に浮かぶのは、苦い苦い笑みだけ。

白原明子は、今の自分が金に困っていることを知っている。

だから、最後には売ると決めつけている。

それだけでは飽き足らず、ここまで徹底的に辱める。

松原家が傾いた頃も、彼女は散々見下され、蔑まれてきた。

それでも、今回のこれは別格だった。

どうしようもない無力感が、胸の奥を冷たく埋めていく。

逃げたい。

もうここにいたくない。

そのときだった。

店の入口に、背の高い人影が現れた。

ここは藤原家系列のショッピングモールだ。

藤原傑は会議を終えて通りがかっただけで、本来なら足を止めるつもりなどなかった。

だが、カウンターの上にあるものが目に入った。

理由はそれだけで十分だった。

あの青は、あまりにも目を引く。

――オーシャンハート?

藤原家の当主として、宝飾品を見る目には自負がある。

この石は、かつて松原家が最盛期を誇っていた頃、松原家の令嬢の嫁入り品として何度も話題になったものだ。

なぜそんな品が、こんなブランド買取店にある?

藤原傑は足を止め、店内へ視線を向けた。

白いTシャツ姿の女が、こちらに背を向けて立っている。

痩せていて、ひどく頼りない背中だった。

その向かいでは、全身ブランドで着飾った女がサファイアを手にし、露骨な挑発をぶつけている。

「松原家の人間か」

藤原傑の目がわずかに沈む。

松原家の令嬢、松原南の名は知っていた。

四年前、野心だけでのし上がった男に嫁いだきり、ぱったり噂を聞かなくなった女だ。

まさか、あれがそうなのか。

かつて社交界で名を馳せた令嬢が、物を売って金に換えなければならないところまで落ちたというのか。

少し興味が湧いた。

藤原傑はすぐには立ち去らなかった。

この女に、まだ昔の矜持がどれほど残っているのか――それを見てみたくなったのだ。

だが、女が振り向いた瞬間。

その目が、痛々しいほど赤く腫れているのを見て、胸のどこかが不意に揺れた。

壊れそうなほど脆いくせに、必死に平気なふりをしている。

その姿が、妙に心を刺した。

数分後。

「それ、俺が買う」

藤原傑は大股で店内に入ってきた。

ひやりとした気配まで一緒に連れてくる。

入口での見物には、もう飽きた。

長い指に挟まれたブラックカードが、無造作にガラスケースの上へ放られる。

その声色は相談ではない。

命令だった。

低く冷えた声が落ちた瞬間、店の中がしんと静まり返る。

白原明子は顔に貼りつけた横柄な笑みを引っ込める間もなく、相手の顔を見た途端、全身を凍らせた。

ここが藤原家系列のモールだということは知っていた。

だが、どうして藤原傑本人がここに現れるのか。

次の瞬間、彼女は慌てて別人のような笑顔を作る。

「ふ、藤原若様? お噂はかねがね……」

藤原傑。

E市でも頂点に立つ権力者だ。取り入ろうとしない者などいない。

けれど藤原傑は、白原明子に一瞥すらくれなかった。

軽く手を上げると、その意図を秘書が即座に汲み取る。

一歩前に出た秘書が、無表情のまま手で出口を示した。

「白原様、どうぞお引き取りを。こちらはこれより貸し切りとなります」

白原明子の顔色が青から白へと変わる。

唇を噛みしめ、最後に松原南を憎々しげに睨みつけると、ようやくヒールを鳴らして出ていった。

その目ははっきりと言っていた。

――覚えていなさいよ。

店内は再び静かになった。

松原南は、目の前の圧の強い男を見て、ただ皮肉だと思った。

元夫は浮気相手と組んで自分を辱めた。

なのに最後に窮地を救ったのは、見ず知らずの他人だった。

なんて滑稽なのだろう。

松原南は気持ちを整え、口を開く。

「ありがとうございます、藤原さん」

ニュースで顔を見たことがある。

だから彼が誰かは、当然知っていた。

藤原傑は、彼女の赤く染まった目を見つめ、なぜか胸の奥が苛立った。

以前、松原家とは仕事で関わりがあった。

だから知っている。

かつて松原家の令嬢は、誰より誇り高い女だった。

それが今は、こんなふうに一方的に踏みにじられている。

藤原傑は彼女を見据え、暗く深い目を細めた。

「松原のお嬢様も、ずいぶん落ちたものだな」

松原南の顔から血の気が引いた。

そして次の瞬間、ふっと笑った。

涙が頬を伝い落ちる。

絶望と痛みを貼りつけたような笑みだった。

「藤原若様は、私にどんな見込みがあると思っていらっしゃるんですか? 今の私は、ただの役立たずです。笑いものなんです。娘の命を救えるなら、侮辱されようが、死ねと言われようが、私は迷いません」

クルミが助かるなら、尊厳なんて何になる。

金に換えられるのか。

クルミの命と引き換えにできるのか。

藤原傑の眉がぴくりと跳ねた。

目の前で取り乱す女の姿が、なぜかひどく見ていられない。

彼はそれ以上何も言わず、店員にカードを通すよう目で示した。

「500万」

藤原傑はそう告げた。

「このオーシャンハート、俺が買う」

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