第7章
「何を騒いでるんだ?」
主治医がドアを開けて入ってくるなり、床に散らばった惨状を見て露骨に眉をひそめた。
「ここは病院です。ケンカするなら外でやりなさい。患者さんは安静が必要なんです!」
江村成宏はさすがに体裁を気にする男だ。医者の姿を認めると、ふんと鼻を鳴らし、松原南を押さえつけていた手を離した。
次の瞬間、解放された松原南はベッドに駆け寄り、クルミをぎゅっと抱きしめて胸の中にかき抱いた。
誰にも――この子に指一本触れさせない。
絶対に。
医者はクルミの数値を一通り確認し、異常がないことを確かめてから、冷えた視線を江村成宏へ向けた。
「お父さん。子どもは、こんなふうに振り回したら持ちませんよ」
江村成宏は乱れたスーツの襟元を整え、陰った目で松原南母子をひと撫でしてから、何も言わず白原明子の腕を引いて脇へ退いた。
病室に、ようやく静けさが戻る。
聞こえるのは、松原南の荒い呼吸だけだった。
主治医は病室を出ると、出たばかりの検査結果の紙を手にした。だが、その指先はかすかに震えている。
廊下の端まで歩き、人目を避けて番号を押した。
ツー、ツー……
二度ほど鳴ったところで繋がり、老いてなお威厳のある声が響く。
「どちらさま?」
「藤原奥様、私です」
医者は唾を飲み込み、声を潜めた。
「ひとつ……どうしてもご報告すべきことがありまして」
「言いなさい」
「当院に五歳の女の子が搬送されました。血液型が、極めて稀なRH陰性のAB型で……」
言葉を切り、さらに声を落とす。
「それに、マンゴーに重度のアレルギー反応があります。今回の病状も……藤原家の遺伝病歴と、あまりにも一致しているんです」
藤原奥様は、しばらく沈黙した。
藤原家では代々、一定の確率で先天性の腎臓発育の問題が出る。まさかとは思うが、ここまで条件が揃うのは――偶然で片付けていいのか。
医者は切られたのかと思った。そのとき、受話器の向こうが低く問う。
「その子の親は?」
「母親は松原南。おそらくシングルマザーかと」
松原南。
藤原奥様は頭の中で名前を探った。どこかで聞いた気がする。けれど、どこで――。
「わかったわ」
一拍置き、疑うような声になる。
「あなたの言いたいことは、その子が傑の子だということ? そんな都合のいい偶然があるものですか。当時残したサンプルは、もう処分したはずよ。どこから子どもが出てくるの」
藤原傑は女に興味がない、という噂があった。藤原家の跡継ぎを案じた藤原奥様は、早い段階で息子に精子バンクへ提供させている。
だが、サンプルは藤原傑本人が手配して、きれいさっぱり処分した――そのはずだ。
「ですが、あの子の顔が……」医者は先ほどの一瞬を思い出し、息を詰めた。「藤原若様と同じ型で抜いたみたいなんです! あまりにも似すぎている。黙っていられませんでした!」
「成り上がりたい人間なんて、いくらでもいるわ」
藤原奥様は鼻で笑った。だが、わずかな逡巡が混じる。
「とはいえ、あなたがそこまで言うなら……しばらく見張っておきなさい。取り逃がすくらいなら、間違ってもいい。もし藤原家の血なら、外に流れているだけで藤原の面目が潰れる」
「承知しました!」
電話を切った医者は、額の冷や汗を拭い、病室の方角を振り返る。
もし本当に藤原家の子なら――世の流れが変わる。
病室の中。
江村成宏は、すぐには立ち去らなかった。
ベッドの上で弱々しく横たわるクルミを見つめ、目がわずかに揺れる。
自分の娘だ。
体外受精であっても、血は繋がっている。
それに、白原明子はいまのところ子どもを望んでいない。なら、あの子をこちらへ引き取れさえすれば――。
江村成宏は表情を作り替え、ベッドへ歩み寄った。声も、妙に柔らかい。
「クルミ。さっきはパパが焦りすぎただけだ。怖くなかったか?」
松原南は全身を強張らせ、鋭く睨む。
「近づかないで!」
「俺は父親だ。何をするっていうんだ?」
江村成宏は松原南を無視し、身を屈めてクルミの目線に合わせた。諭すように言葉を積む。
「クルミ、パパと一緒に来ないか。パパのところには大きな屋敷がある。おもちゃも山ほどだ。世話してくれるお手伝いさんだっている。お前のママは今、何もできない。自分のことすらまともにできないんだ。あの人についていけば、苦労するだけだぞ」
大きな家。
たくさんのおもちゃ。
五歳の子どもには、抗いがたい餌のはずだった。
白原明子は横で立ち、江村成宏のやり方に内心苛立って爪が肉に食い込むほどなのに、顔には作り笑いを貼り付けている。
松原南は怒りで震え、口を開きかけた。だがそのとき、腕の中の小さな身体が動いた。
クルミは顔を背け、松原南の胸に頬をうずめる。くぐもった声で言った。
「いらない」
「……何だと?」江村成宏の顔が引きつる。
クルミは顔を上げた。大きな瞳には、子どもらしからぬ冷たさが宿っている。
「いらないって言ったの。ママがいればいい。あなたはパパじゃない。悪い人」
悪い人。
その言葉が、ぱしんと江村成宏の頬を叩いた。
松原南の目が熱くなり、娘を抱く腕に力が入る。
この子は――私の子だ。
間違ってなかった。
江村成宏の作り笑いが、完全に崩れ落ちた。途端に顔が曇り、声が荒くなる。
「誰が悪い人だ? 俺はお前の実の父親だぞ! 俺がいなきゃ、お前はここにいない!」
「成宏君……」
白原明子が頃合いを見て前へ出て、江村成宏の腕に絡みつく。いかにも痛ましげに首を振った。
「ほら、見てください。南さん、普段どうやって子どもを躾けているんですか? 実の父親を嫌うように仕向けるなんて……怖すぎます」
ため息をつき、松原南へ視線を投げる。
「南さん。あなたが私たちを憎むのは分かります。でも子どもは無関係です。成宏君への憎しみを、子どもに植え付けるなんて……」
「黙れ!」
松原南は目を赤くして吐き捨てた。
「白原明子、いい人ぶるのもいい加減にして! クルミが戻ったら、あなたの寵愛を奪われるのが怖いだけでしょ? 安心して。あなたのガラクタなんていらない。私の娘も、いらない!」
「……っ!」
白原明子は図星を刺され、顔色を失った。次いで泣きそうな目で江村成宏を見上げる。
案の定、江村成宏は激昂した。
「松原南! 調子に乗るな!」
指を突きつける。
「父娘の情けで助けてやろうと思ってたが、そこまで言うなら勝手にしろ! その連れ子と一緒に、野垂れ死にしろ!」
「俺の金がなきゃ、そのガキの治療だってできねえだろ!」
「そのうち地面に這いつくばって、俺に泣いて頼むことになる!」
松原南は背筋を伸ばし、歯を食いしばった。言葉は一つ一つ、硬く鳴る。
「江村成宏。安心して。私、血でも腎臓でも売ってやる。あなたに一円だって頼まない。出ていけ。女を連れて、今すぐ出ていけ!」
「いいだろ。上等だ」
江村成宏は怒りに笑い、白原明子の手を掴んで踵を返した。
「行くぞ! 放っておけ! 自滅させてやる! 俺がいなくて、いつまで強がれるか見ものだ!」
バン――!
病室を出た江村成宏は、まだ怒気を纏ったままだった。すると隣の白原明子が、骨のないようにぴたりと身体を寄せてくる。
含みのある囁き。
「成宏君、クルミ……前はあんな子じゃなかったですよね。お姉さん、最近忙しくて、ちゃんと教えられてないんじゃ……このままだと、クルミの性格が……」
言葉を途中で切り、ためらうふりをする。あくまでクルミを案じている、という顔で。
江村成宏は鼻で笑った。
「松原南のあの女、今日お前にあんな態度取りやがって……絶対に許さねえ」
さっき病室で受けた屈辱が蘇り、胸の奥の火がさらに大きくなる。
「あいつはいい思いをしすぎて、身の程を忘れてるんだ」
顔に暗雲が垂れ込めるのに、隣の女を見るときだけはわずかに和らいだ。
「心配するな。必ず仕返ししてやる」
