第3話 踊りのあとで
イザベラの視界に、あのゴシック体の金文字がまた浮かび上がった。
まるで燭台の炎から剥がれ落ちた光の薄膜のように。
【重要フラグ発動:秋の宴・開幕の舞、招待イベント開始。】
アーサーの瞳の奥にまだ空白が残っているのを見て、イザベラは悟った。
——この文字は、自分だけに見えているわけじゃない。
沈黙が続いた。
イザベラが暇を持て余して指を数え始めるくらいには。
アーサー・カヴァナの手は宙に浮いたまま、指先はエレナの方向へ向けられている。
会場中の視線が凍りついた。
窓際に立つ男爵夫人たちが一斉に扇を開き、その音がまるで何かの合図のように空気を切った。楽師は弦に指をあてたまま、動けずにいる。
イザベラは隅のテーブルのそばに立ち、ドレスの陰で握りしめていた手を、ゆっくりと開いた。
彼の喉仏が、かすかに動いた。
「どこまで言いましたっけ」
その声は、三ヶ月前に法律事務所で書類に署名した日と、まったく同じ温度だった。
あの冷たい蛍光灯の下の横顔を、彼が離婚協議書にサインし終えてペンを投げるように置き、「これでいいだろ」と呟いた瞬間を、イザベラはまだ覚えている。
そして今、その同じ顔が、輸入暖炉の説明書でも読み上げるように、舞踏の招待の言葉を一字一句続けていた。
【警告:重要イベント中断が三十秒を超えました。強制修正を実行します。】
イザベラは心の中で悪態をついた。
このシステムは、自分だけを管理しているわけじゃない。誰がいつ口を開くべきかまで、全部仕切っている。アーサーのあの抜け殻のような様子も、十中八九、この金文字に急かされた結果だ。
アーサーの招待の言葉は機械的で、聞いているこちらが気まずくなるほど正確だった。
一語一語が過不足なく、間合いまで規格通り——まるで精密に調整されたオルゴールのように。
エレナのドレスの裾がふわりと半回転し、彼女はアーサーを見る前に、まずセドリック公爵へ視線を送った。
公爵は上座で銀のスプーンを指先で回しながら、目線は燭台の先端に落としたまま、まるで蠟が垂れる様子でも数えているようだった。
それからエレナは、懐から一枚の手形を取り出した。
王立銀行の金箔の刻印が、燭台の炎を受けてきらりと光った。
「上流社会に入れないのは、金貨の問題じゃないのよ」
彼女はその手形を、アーサーの手のひらに叩きつけた。
会場がどよめいた。
まるで壁が崩れ落ちるような音量で。
窓際の男爵夫人たちは扇で口元を隠し、暗色の燕尾服の紳士たちが短く含み笑いを漏らす。グラスを掲げる者、咳払いで誤魔化す者、あからさまに顔を背ける者。
セドリック公爵は銀のスプーンを回す手をようやく止めたが、その目が向いたのはアーサーではなく、エレナだった。
アーサーの瞳孔がかすかに収縮したのを、イザベラは見た。
それでも、口元の筋肉はびくともしなかった。
彼は手形を受け取った。
落ち着いた動作で。
まるでスーパーのポイントカードを受け取るように。
そして次の瞬間、彼の目の奥を何かが過ぎった。
安堵だった。
屈辱じゃない。
任務完了後の、静かな軽さ。
離婚協議書にサインし終えたあの瞬間と、まったく同じ顔をしていた。
イザベラは人波の中で、半歩後ろに下がった。
この茶番を最後まで見届ける必要はない。アーサー・カヴァナがどう嘲笑われようと、それは自分には関係のない話だ。
彼女は踵を返し、側扉から宴会場を抜け出した。
回廊の空気は半度ほど冷たかった。
人の声が扉の向こうに閉じ込められ、くぐもった響きだけが低く続いている——箱の中に詰め込まれた羽虫の羽ばたきのように。
イザベラは石壁に背を預け、一秒だけ目を閉じた。
「本当に、覚悟できてるの?」
三ヶ月前、離婚書類にサインする前夜のことだった。
彼は彼女の背後に立ち、あんなに低い声を出したことは一度もなかった。
あのとき、彼女は振り返らなかった。「あなたがサインした速さが、もう答えでしょ」と言った。
今、回廊の石壁が冷気を肩甲骨に染み込ませてくる。
あの夜、彼が下ろさなかった手のように。
背後から足音が近づいてきた。
イザベラは目を開けなかった。
この足音には聞き覚えがある。七割の革靴音と、三割の躊躇——結婚していたあの一年間、夜ごと寝室を訪ねてきた彼の足音と、まったく同じ間合いだった。
それでも振り返れなかった。
振り返って、彼でなかったら。
この二十歳の身体は、その場で壊れてしまうかもしれない。
足音が、一歩分の距離で止まった。
沈黙が続いた。
五秒だったのか、五時間だったのか、もうわからない。
「痩せたな」
耳の後ろから声が届いた。
低く、くぐもって、熟成したウイスキーのような掠れを帯びていた。
イザベラの背筋が、強張った。
「三ヶ月前にサインしたとき」
彼は続ける。まるで他人事を復唱するように。
「あのグレーのスーツ、腰のあたりがまだきつそうだったのに」
彼の手が自分の腰の脇で、ぼんやりと輪郭を描く。
「今のその身体、骨が当たりそうだ」
イザベラはゆっくりと振り返った。
アーサーが、一歩分の距離に立っていた。
扉の隙間から漏れる燭光が、彼の顔の半分だけを照らしている。二十歳の輪郭に、三十歳の目が宿っていた。
口の端がわずかに持ち上がっている——結婚最後の一年間、一度も見ることのなかった、あのちょっと無頼な笑みだった。
「……律」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
彼はわずかに前傾みになり、壁の影が顔の半分を飲み込んだ。
「まだ俺のこと、わかるんだな、冴月さん」
彼は言った。
「離婚届にサインした瞬間、俺の顔なんてフォーマットされたかと思ってた」
「あなたも飛ばされてきたの」
「お前もだろ」
「いつ?」
「本を破いたあの瞬間だ」
アーサーは少し身を傾けて、声をさらに落とした。
「俺が掴んだのは、同じページの反対側の端だった」
イザベラは彼を見つめた。指先が無意識に丸まり、バッグの金属の留め具が小さな音を立てた。
「いつ、目が覚めたの」
「馬車の中だ。この身体の持ち主は、宴会から逃げ出そうとしてた。ここで恥をかきたくなかったんだろうな」
アーサーはあっさりと言う。
「目を覚ましたとき、手の中にまだ破いた紙の切れ端を握ってた」
「じゃあ、私の手元にある反対側の切れ端は」
「お前のとこにある」
アーサーはそれ以上追いかけなかった。踏み込んでも来なかった。
回廊に静寂が落ち、遠くの宴会場から笑い声の波がまた一つ押し寄せてきた——まだ続いている茶番劇を、思い出させるように。
「どうして私がここにいるって分かったの」
「目が覚めたら、頭の中に何かが指示してきた。この場所に来いって」
アーサーの声が低くなる。自分でも意味を掴みきれていない言葉を繰り返すように。
「もとの世界に帰りたいなら、今夜の芝居を最後まで演じろって」
イザベラはしっかりと聞いた。一言も聞き逃さなかった。
彼は「小説」とは言わなかった。「物語」とも、「登場人物」とも言わなかった。
「もとの世界」と「芝居」——その二つだけ。
彼はここが本の中だと、知らない。
「それで、何が言いたいの」
「ここがどこなのか、俺にはわからない」
アーサーは言った。
「ただ頭の中の何かが、決められた芝居を演じ切れば帰れると言ってる。信じるかどうかは勝手にしろ。でもチャンスは一度きりだ」
彼の吐息が、イザベラの鬢の毛をかすかに揺らした。
宴会場に漂っていたワインの残り香が、そこにあった。
回廊の奥から、足音が響いた。
ふたりのものではない足音が。
