第4話 薔薇迷宮の夜

桐島冴月は、回廊の陰に立ったまま動かなかった。

侍従の足音が少しずつ近づいてくる。振り返ろうとは思わなかった。肩掛けバッグのサイドポケットの中、あの約束手形の角が薄い革越しに腰骨へ食い込んでいた。

提灯を持った侍従が目の前を通り過ぎた。灯芯が油皿の縁にだらりと垂れ下がり、小さな炎が黒い煙をひと筋だけ吐き出している。彼は冴月に気づくと、ほんの少しだけ頷いた――提灯を下げることすらせずに。

この学院が使用人に叩き込んでいる必修科目は、きっと「零落した者への軽蔑を最小コストで表現する方法」に違いない。

冴月はそう思いながら、彼の足音が遠ざかるのを待って、ようやく陰から出ると、来た道を引き返した。


後庭園の西側に広がる薔薇の迷路。入り口に並ぶイチイの木は尖塔形に刈り込まれていて、夜の闇の中では、一列に立て並べられた古い帳簿のように見えた。

冴月はわざと二度遠回りをしてから足を止め、無言でイチイの数を数えた。十七本。一昨年より三本少ない。

こういう場所では、木でさえ人数に合わせて間引かれるのか。心の中で、冷ややかに笑った。


石のベンチは三つ目のアーチをくぐった先にあり、壁を這う薔薇の茂みに半分隠れていた。

瀬川律はすでにそこに腰を下ろし、肘を膝の上に乗せ、指先で落ちてきた薔薇の葉をくるくると回していた。開幕からずいぶん時間が経ちすぎた交渉の席で、相手の出方をただ待っているような、そんな佇まいだった。

「私を待っていたの?」

冴月は二歩ほど手前に立ったまま、座ろうとしなかった。

「あなたの後ろについていた尾行を、全部まいてくれるのを待っていた」

律は顔を上げて彼女を一瞥した。

「ここは法律事務所の待合室よりはましだよ。少なくとも、ビジネス雑誌は置いていない」

「ビジネス雑誌なら、どの業界が赤字か教えてくれるわ」

「僕が今気になるのは、どの爵位が赤字かの方でね」

律は少し横にずれて、場所を空けた。

「座れよ。石のベンチは銀行の金庫室の椅子と同じくらい冷たいけど」


冴月は腰を下ろした。背筋をまっすぐに伸ばしたまま、まるで自分をここに一時預けして、いつでも引き取れるよう準備しているかのような座り方で。

夜風が吹いてきて、スカートの裾を一角だけめくり上げた。手を伸ばして押さえようとしたとき、律はすでに身を傾けていた。二本の指でスカートの内側のひだをさっと伸ばし、ウエストラインに沿って下へと押さえる。考えるより先に手が動いていた、そんな滑らかな動作だった。まるで指先の方が頭よりも先に、この生地のことを覚えているかのように。

冴月は身をかわさなかった。ただ冷ややかな目で、それを見ていた。

彼がそれを終えると、今度はウエスト部分に視線を落とした。そこにはボタンがひとつ、糸が切れてぶら下がっていた。麻ひもみたいな糸くずを垂らして。

律は二秒も経たないうちに、コートの内ポケットから針と糸のセットを取り出した。針を抜き、糸を通し、結び目を作り、あっという間にボタンを縫い直してしまった。糸を引き切るとき、小指が癖のように外側に跳ねた。

冴月は何も言わなかった。ただ視線をそらして、何度も読み返してすっかり擦り切れた古い帳面でも繰っているような顔をしていた。

「いつから針と糸を持ち歩くようになったの?」

「自分の服も糸が切れたら困るから」

律は針と糸をしまいながら、手の動きを一瞬止めた。

「でも今日は持ってきて正解だった」


「あの通行証」

冴月は不意に言った。

「あなたが入れたのね」

律は一瞬きょとんとした顔をして、それからくぐもった笑い声を漏らした。

「気づいていたか」

「トランクの中身は全部確認した。あんなものは入っていなかった」

彼女は彼を見据えた。

「いつ入れたの?」

「馬車が途中で一度止まっただろう。御者が馬に水をやりに降りたとき、使用人を回り込ませて、車窓から差し込ませた」

律はさらりと言った。まるで取るに足らない些細なことを報告しているように。

「どうせ招待状なんか持っていないと思っていたから。原作のイザベラは校門にさえ入れてもらえない。秋の宴なんて、なおさらだ」

冴月は数秒、黙っていた。

夜風が薔薇の茂みの奥から吹いてきて、枯れかけた花びらの渋い香りを運んでくる。ありがとう、と言いかけた。でもその言葉は喉のところで引っかかったまま、溶けずに残った。砂糖菓子がひとつ、口の中で固まっているみたいに。

「説明してほしいんだけど」

彼女は話題を変えた。声がわずかに低くなった。

「どうしてあなたが、私と一緒にこの本の中に入ってきたの」

「本?」

律は顔を上げ、膝の上から肘を下ろした。

「その洋書というのは、本当に一冊の本なのか?」

「じゃあ何だと思ったの、ヨーロッパ中世テーマパーク?」

「ヨーロッパ封建社会を舞台にした……空間に迷い込んだと思っていた」

律はできるだけ真顔で言ったが、口に出した瞬間、自分でも荒唐無稽さに気づいたようだった。

「歴史かもしれないし、平行世界かもしれないと」


冴月は三秒ほど彼を見つめてから、ゆっくりと石のベンチの背もたれに体を預けた。一度目を閉じ、また開いたとき、声はさらに落ちていた。

「私たちは今、小説の中にいる。原作は読んだことがある。あなた――アーサー・カヴァナは、その中でエレナを追いかける男性の脇役よ」

律は半拍遅れて、低く「はっ」と笑い声を漏らした。顔を背けて薔薇の茂みの奥を眺め、数秒経ってからこう言った。

「最初からそれを切り札にするつもりだったんだな」

「少なくとも私は、ルールも分からないうちから、原作すら読んでいない男に命を預けようとは思わない」

「悪役に書かれているのは仕方ない」

律は顔を戻した。声はほとんど飄々としていた。

「でも僕は人としてはまともな方だと思うよ」

「あなたが人としてまともかどうか、本に書いてあることより私の方がよく知っている」

冴月はそれ以上続けなかった。ただ手を伸ばして耳元の髪を耳にかけ、その流れで彼をちらりと見た。

月明かりが斜めに差し込んで、彼の顔の半分を白く照らし、もう半分は薔薇の枝の影に沈んでいた。その横顔が、三ヶ月前の法律事務所の廊下の突き当たりで見た彼の姿に重なって、これはただ長い夢なのではないかと思いそうになった。

でもサイドポケットの約束手形がまだ腰骨に食い込んでいて、これが夢ではないことを、現実の重さで教えていた。


口を開きかけたそのとき、一枚の枯れた薔薇の花びらが枝先から舞い落ちて、ちょうど彼女の髪の上に降りてきた。

律が手を上げた。払ってやろうとするように。でも、途中で止まった。

指先は彼女の耳たぶから一センチも離れていなかった。彼女の髪の間から漂ってくる香りを、指先が感じ取っていた。この時代には存在しないシャンプーの残り香――シトラス系の、かすかな清涼感。ふたりが婚礼の部屋で使っていたのと、同じボトルのもの。

冴月も固まった。振り返ることはしなかったが、余目に映るその手の輪郭は見えていた。骨ばった指。左手の薬指の付け根に、浅く白い古い傷跡。

三秒。あるいはもっと長く。

律はやがて手を引いた。花びらは指の間に挟まれたまま、静かに砕かれた。


「こういうことにしましょう」

冴月は背筋を伸ばし直して、話を元に戻した。

「私があなたに原作の人物相関図を渡す。誰がいつあなたを潰しにかかるか、誰があなたを助けられるか。あなたは私に生き残るための情報をくれる。どの道が使えるか、どの門番に金を握らせればいいか、この学院の裏のルールは何か」

「金のことは気にしなくていい」

律は言った。彼女が断る前に、と言わんばかりの速さで。

「約束手形でも小切手でも、いくらでも出す」

冴月は彼をちらりと見た。

軽々しく言ってのけるその口ぶりは、まるで本当にサインひとつで何でも済む御曹司になりきっているみたいだった。でも冴月には、その言葉の裏が聞こえた。暖房費も払えない屋根裏部屋に彼女をこれ以上住まわせたくない、でもそれを素直に言うことは絶対にしない。

昔、スカートの裾を直してやるたびに「ついでだから」と付け加えていたときと、何も変わっていない。

冴月はそれを指摘しなかった。ただ「ええ」とだけ言って、無利子の借用書を受け取るようにそれを納めた。

「ただし」

律がもう一言付け足した。指を一本立てて、彼女に向けた。

「これは貸しだからな。後で情報で返してもらう。相関図はサービスでいい」

冴月は彼を見て、もう少しで笑い出すところだった。

そう、やっぱりあの頃と同じだ。何でも損得に換算しないと気が済まない、元夫のやり口。

値切り返すことはしなかった。ただ空を見上げた。薔薇の茂みの奥で風が起きて、何かが花の芯から滲み出てくるような気配があった。


羊皮紙のような質感の、金色のゴシック体の文字が目の前に浮かび上がった。月明かりの中から一ページが折り出されてきたように。一行目にはこう書いてあった――

【愛の世界へようこそ。】

ゴシック体にしても無駄だった。この一文は、現代のショッピングモールの開業横断幕と同じくらい安っぽかった。

読み終わる前に、その金文字が一瞬明滅した。誰かが素早くページをめくったように。二行目がすぐさま押し上がってきた。字はより密に、より眩しく、ほとんど網膜を焼くほどの輝きで。

冴月は冒頭のひとつの名前を読み取ったところで、瞳孔が急激に収縮した。

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