第6話 焚書の公爵

律の名刺と従僕は、あっさり借りられた。

冴月が手を差し出すと、彼は銅の留め金のついた革の名刺入れを解いて差し出した。使い古した時計でも渡すみたいに、何のためらいもなく。あまりに自然で、むしゃくしゃしてくる。

冴月は名刺を繰ってみる。端には金の押し箔が施され、持ち主がカヴァナ家の保証を受け、学院内の立ち入り禁止区域を除く大部分へ通行できると記されている。

「何に使うか、訊かないの?」

「訊いたら教えてくれるのか」

律は薔薇迷宮の白い壁にもたれ、礼服の上着を前腕にかけ、風で皺になったシャツの袖口をのぞかせている。

冴月は答えず、懐から炭筆とメモ用紙を取り出し、石段に片膝をついたまま書き始めた。筆走りは早い。字はわざと崩している。粗悪な麦酒を三杯飲んだ人間が、怒りに任せて殴り書きするような字で。

便条の一行目は「ハルトン家の番犬へ」。二行目は「とっくに目に余る。古文書閲覧室に来て、勝負しないか」。

彼女は手を止め、筆先を紙の上に浮かせたまま、末尾に太くて短い鳩を描いた。翼は傾いて、態度は傲慢。

律は覗き込んで、一言だけ言った。

「その鳩、お前に殴られたみたいだな」

「サインよ」

彼女は紙を折り、傍らに控えているカヴァナ家の従僕へ差し出した。

「古文書閲覧室まで届けてちょうだい」

従僕は頭を垂れたまま、受け取らない。律が顎を軽くしゃくってみせると、初めて恐る恐る名刺を受け取った。焼けた炭を受け取るような手つきだった。

冴月は男の消えた方角を見やり、裾の埃を払って明るく言う。

「さあ、古文書閲覧室に行きましょう」

「名刺二枚で古文書閲覧室に入れるのか」

律は追いかけてきた。足取りはだらしがない。

「入れないわ。だからあなたには、外で騒ぎを作ってもらうの。閲覧資格は紋章の格付け次第。没落貴族の私は、門くらいしか通れない。本は借りられない」

「よく調べたもんだ」

「雨に打たれてずぶ濡れになった某人よりはね」

冴月の声は平坦で、天気でも述べているみたいだった。

律は笑った。反論しなかった。

二人は砕石の小径を西へ進む。日暮れは早く、風の向こうから遠くの馬小屋の干し草の匂いが混じってきた。冴月は目の端で彼を盗み見る。右手首を無意識に撫でている。かつて車に乗る前にしか見せなかった仕草だ。

彼女は指摘しなかった。ショールを肩に引き上げるだけに留めた。

古文書閲覧室から呼び出された公爵は、喜んで宴に赴く公爵より間違いを犯しやすい。怒っている者ほど、足取りは重く、隙は大きい。彼女は知っていた。

古文書閲覧室は、冴月の知るどの図書館よりも冷たかった。

高く細い窓から、色ガラスを通した光が漏れ、空気を何枚もの色染めた古布に切り分けている。奥の長机に三つか四つ、学生の姿がある。襟の紋章は獅子か菖蒲、最悪でも銀の縁取りがひとつ。人数は少ないのに、館内は呼吸さえ同じ間隔に調整されたみたいに静かだった。

彼女は高い書架のあいだを抜け、紋章学の区画へ向かう。目的は一冊だけ。『帝国紋章学考』。深い茶色の革表紙、書脊には金属の紋の填まった盾の標が三つ。

冴月は本を外し、開くと古い紙の匂いがした。ごく淡い薄荷の煙草の臭いが混じっている。この時代に、薄荷の煙草は存在しない。

彼女は眉心がぴくりと動くのを感じ、見返しの頁を開いた。三頭の獅子が背中合わせになった一族の紋章が、一枚だけ描かれていた。

その時、背後に足音が近づいた。

灰色のベストを着た侍従が、彼女の前に立ち止まる。視線は顔を滑り、本の上に落ち、袖口と襟飾りへ戻った。今にも彼女の身柄を値踏みするような目つきで。

「お嬢さん。ここに収められた書物は、第三架区画の外へは持ち出せません。また、貸出資格を確認させていただきます」

冴月は顔を上げなかった。

「カヴァナ家の保証つきの名刺を持っているの」

「それは、古文書閲覧室の保証には含まれません」

侍従の声は穏やかだった。だが、体はわずかにも横に寄らない。

「おいおい。ここ、人員不足なのか」

声は入口のほうから、木漏れ日に紛れて飛んできた。律はゆらりと現れ、襟元を緩めたまま、他人の居間へ迷い込んだみたいに自然だった。

「さっき外で、こそこそと本を抱えて東へ逃げる人間を見たぞ。確認しないのか?」

侍従の眉が、わずかに動いた。それでも、動かない。

「お客様、ご迷惑を――」

「こうしよう」

律は胸の名刺のリボンを引きちぎり、侍従の手の中へぽんと放った。

「俺を担保に置いていけ。絶対に逃げない。人を捕まえるなら、道も案内してやる」

侍従は名刺を見下ろし、それから顔を上げた。分類不能なものを見る目だった。

冴月はその隙に、本をショールでくるみ、壁際の陰へ身を滑り込ませた。時間がない。便条を届けた者の足なら、十分もせずにセドリックを連れてくる。だが、その前に、書架からあと何冊か本を抜いておく必要があった。

彼女は後ずさりしながら、隣の三段の架の最下段から薄い冊子を二冊抜き、ついでに堅い装丁のものを一冊。すべて脇の下へねじ込んだ。

当時、彼女は本の題名を見ていなかった。後から考えても、見ていたところで取り違えたとしか思わなかっただろう。人はあわてていると、目が手の言い訳を引き受けるのだ。

案の定、十分と経たないうちに、古文書閲覧室の入口の光が、ひとつ影で埋まった。

セドリックが入ってくる。

今日は紋章の装飾のついた上着ではなく、薄い深灰色の外套を肩にまとっていた。襟のボタンは喉仏の直下まで留められている。その顔色は、便条を読んだことと、差出人がどの寒村の隅から這い出してきたか見当がついたことを、先に物語っていた。

彼の視線は館内を一周し、最後に彼女へ止まった。冴月は本を抱えたまま前へ進み、書架のあいだで道に迷ったように、ちょうど目が合う位置へ出た。歩調を速め、肩をわずかに傾げ、二人の距離が半尺に迫ったところで、派手につまずいた。

角度は正確だった。靴先が絨毯の卷れを捉え、体は前方へ崩れ、懐から本がこぼれ落ちる。

厚さのちがう何冊かが、石畳の上を滑った。泳ぐ紙の魚みたいに、一直線にセドリックの足元へ。

彼の視線は、下へ落ちた。

広がった本を、順に拾い上げていく。

『下町平民俗語集』。表紙は白く擦れ、隅に油の染みのついた指痕。

『閨閣夜話図録』。金の縁取り。浮いた裏表紙の下から、男女のからみ合う挿絵が半頁だけ覗いている。

『恋人の相性十課』。布張りの表紙。頁のあいだには、枯れた薔薇の花びらが一枚、挟まっていた。

最後に、元々取るはずだった『帝国紋章学考』がショールの内側から滑り出し、数歩先に開いたまま落ちている。この偶発への呆れを、書体で表しているようだった。

古文書閲覧室には、色ガラスの外の風の音すら届いた。

冴月は倒れた姿勢を維持したまま、肩に埃、乱れた数拍の呼吸。体を起こした時、ちょうどセドリックの顔が見えた。

彼の視線は床の本を一冊ずつ這わせていた。書名がひとつ通るたびに、喉の奥の気温が一度ずつ下がっていくようだった。

言葉はない。眉骨の影が、表情の大半を覆っている。

それから、彼は彼女を見た。

汚れを見る目だった。

冴月は思わず、前世の事務所に掛けられていた模造のモネの睡蓮を思い出した。額縁の隅に水染みがあって、会議のたびに視界に入り、やがて誰も見ず、誰も触れず、存在しないものとして扱われた、あの絵。

今、彼女はあの絵になった。

その時、彼女の視線は、セドリックの垂れた左の手を、不意に横切った。

左手の薬指に、銀の素朴な指輪が光っていた。紋章も宝石もなく、元の光沢は摩耗してほとんど判別できない。公爵の身分からすれば、貧相な装身具だった。

さらに奇妙なのは、彼女が転んだ瞬間、その指輪が燭光の中で一瞬だけ閃いたことだ。彼の視線は指輪の上に、半秒も留まらなかった。それが今夜、唯一「人間らしさ」の漏れた瞬間だった。かつての古傷にでも触れたように、彼はすぐさま手を引っ込め、指輪を外套の襞の内側へ隠した。

それから、彼は振り返った。

迷いは一切ない。床に散らばっているのは彼女の本ではなく、彼女という人物の全説明だと言わんばかりに。

「この本、全部焼け」。

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