第1章
自分の誕生日パーティーなのに、主役は別の女だった。
宴会場の入口で、弓月初音は見てしまった。中央ステージの上。夫と娘の間に立つ別の女――まるで仲のいい三人家族みたいに、笑い合っている。
ぐさり、と誰かに心臓を刺されたみたいで、冷たい金属のドア枠に縋ったまま、足が一歩も動かない。
研究室でトラブルが起きて、三十分遅れた。走って来たせいで頬にはまだ薄い赤みが残っている。
待たせた客にどう謝ろうか――そう考えていたのに、会場に入る前から「主役」はすげ替えられていた。
夫の藤原和也は、砕けたダイヤがびっしりと埋め込まれたプラチナのティアラを手にしていた。それを、小川雪菜の頭へそっと載せる。
一週間前、初音は彼がこの贈り物を手配しているのを見た。自分の誕生日プレゼントだと、疑いもしなかった。
和也がわずかに身を傾ける。深灰のスーツは完璧な仕立てで、肩のラインを真っ直ぐに際立たせる。金色の照明が彼の輪郭を薄く縁取り、目を逸らせないほど整って見えた。
ティアラが、雪菜の栗色の巻き髪に落ちる。和也の表情は真剣で、唇の端に浮かぶ柔らかな笑み――初音は一度も見たことがない。
「おめでとう」
囁くような声。
会場は熱い拍手に包まれた。娘の藤原寧々がぴょんぴょん跳ねて雪菜の前に行き、澄んだ声を上げる。
「雪菜おばさん、おめでとう! 大きいプロジェクト、サインしたんだって!」
まだ六歳。プロジェクトにサインが何なのか分からないくせに、大人の真似をして口にする。
それから寧々は、贈り物の箱を差し出した。
「これ、わたしが作った水晶のネックレス! 気に入ってくれるとうれしい!」
視界がじわりと滲む。初音の体がふらりと揺れ、喉の奥から胸の中心まで痛みが走って、意識が遠のきそうになった。
そのネックレスは、娘が一粒ずつ選んだ水晶を、自分で糸に通して作ったものだ。目隠しまでして初音に試着させ、「内緒だよ」と言った。
――自分へのサプライズだと、信じていた。
大きく息を吸い込んで、初音は宴会場へ踏み込む。
急いで来たせいで、髪の一房が首筋に落ちていた。彼女の黒いワンピースは控えめで品がある。それは、全身真紅の雪菜とあまりにも対照的だった。
客たちが初音に気づき、ざわめきが徐々に静まっていく。小声がちらほら刺さる。
「来たの? 縁起悪い……」
「汚い手で藤原家に入り込んだんだから、引っ込んで黄ばんだ奥さんでもやってりゃいいのに、よく出て来れるわ」
「藤原さんにだって相手にされてないのに、しぶといわね」
「彼女さえいなければ、小川さんが藤原夫人だったのにねぇ。幼なじみでお似合いなのに、惜しい」
刃物みたいな噂話が胸に突き刺さる。笑顔が崩れそうになるのを必死で堪え、涙を落とさないように歯を食いしばった。
あの夜の事故――被害者は自分だって同じなのに、どうして皆が自分を責める? 祖父の藤原賢治が強く望まなければ、そもそも藤原家に嫁ぐ資格なんてあると思っていなかった。
「寧々」
三人の前に立ち、初音が何度呼んでも、娘はようやく顔を向けた。
可愛い頬の笑みがすっと消える。
「なんで来たの?」
「今日はママの誕生日だよ」
初音は周囲を無視して膝をつき、娘に笑いかけた。
「ママね、寧々にプレゼント用意してたの。交換してくれる? 寧々はママにくれるもの、ある?」
「今日は雪菜おばさんの祝勝会なの! 邪魔しないで!」
寧々はまるで聞いていない。年齢に不釣り合いな嫌悪を顔に浮かべる。
「雪菜おばさんにプレゼント渡しに来たの?」
初音は呆然と娘を見つめ、言葉が出なかった。
自分の身を削って生んだ子だ。娘のために仕事を捨て、家に専念した。
手のかかる子で、毎晩抱いて寝た。食物アレルギーが多く、外食は一度もさせず、ずっと手作りを続けた。
けれど今年、初音が仕事に戻り始めると、和也は「子どものことは俺が見る」と言って引き受けた。
娘を会社に連れて行くようになり、そこで雪菜と知り合った。いつからか、娘は彼女にどんどん懐き、母親の自分より親しそうにすらなった。
「初音さん、全部私のせいです」
頭上で、雪菜の申し訳なさそうな声が落ちる。
「藤原社長に、あなたの誕生日の席で私の祝勝会も一緒にってお願いしちゃって……あなたの主役を奪うつもりなんてなかったんです。どうか怒らないで」
初音は立ち上がり、心の底で冷たく嗤った。――なんて露骨な“いい子ぶり”。
それなのに和也は見抜かない。あるいは、そもそも初音がどう扱われようと興味がない。
「問題ない。初音は理解してくれる」
まただ。彼はいつも、勝手に彼女を「大人」に仕立て上げる。
さっき落ちかけた涙は、いつの間にか引っ込んでいた。
残るのは、胸の奥に沈殿する疲労だけ。
妻として、正妻として、初音は和也の中でいつだって最後だった。
結婚記念日は「中止だ」と一言で潰され、友人たちとゴルフへ。
弁当を届ける約束の日、彼は顧客との会食に行き、連絡すら忘れ、彼女を会社の前で冷たい風に二時間立たせた。
彼はわざと恥をかかせているわけじゃない。習慣的に、彼女を視界から消しているだけ。
でも、初音にも――尊厳はある。
初めて藤原家の門をくぐった日、初音は言った。和也が自分を好きになるはずがないのだから、子どもはおろしてもいい、と。
それでも藤原賢治は「この子が孫嫁だ」と決め、まずは嫁いできて、ゆっくり愛情を育めばいいと言った。
「子どもが小学校に上がって物心ついて、それでも和也が心を改めないなら、俺が株式を渡して、お前を実家へ帰してやる」
そして今年。寧々は六歳。物心のついた娘は、和也と一緒に――雪菜を選んだ。
「初音さんが気にしないならよかった」
和也の言葉を聞いた途端、雪菜はぱっと笑った。言葉の端々に、得意と傲慢が滲む。
「私の取った案件、ほんとに重要で……何億の価値があって、あなたの研究室なら十回は買えるくらい……」
「それはおめでとう」
初音は淡々と言った。
「どうぞ、ゆっくりお祝いして」
背を向けた、その瞬間。
和也が侍者のトレイからシャンパンを取り、彼女の前に差し出した。
「雪菜にプレゼントは用意してないんだろ。なら一杯、祝ってやれ」
あまりに自然な口調。まるでそれが初音の義務であるかのように。
寧々も得意げに雪菜の前へ出て、初音に吐き捨てる。
「雪菜おばさんのほうがずっとすごい! あの人がママならいいのに!」
初音は堪え切れず、和也に尋ねた。
「あなたも……そう思うの?」
和也は顔を曇らせ、眉間を寄せる。
「子どもは分からないんだ。お前まで本気にするな」
その一言が、最後の一押しだった。初音の心は、音もなく砕けて散った。
彼女はグラスを受け取り、笑った。
「分かった。じゃあ――おめでとう、雪菜さん。私の夫と娘に認められて、本物の藤原夫人になれたこと」
細い指が迷いなく傾く。シャンパンが床へぶちまけられた。
会場がどよめく。
雪菜が固まり、寧々は驚いてわっと泣き出す。和也の視線は刃のように彼女へ落ちたが、初音は振り返らずに立ち去った。
六年分の愛を空気みたいに扱われて、もう続けたくない。
扉へ向かう背中越しに、彼女は軽い声で言い残す。
「離婚しましょう」
