第2章
「全部私が初音さんを怒らせちゃったから……謝りに行く……」
「君のせいじゃない」
背後で聞こえるのは、雪菜のわざとらしい慌てぶりと、和也の穏やかな慰め。
彼らは、初音の「離婚」という言葉にすら、まともな反応をしなかった。
声が遠のく。初音が宴会場を出ると、中はすぐ元通りの賑わいに戻った。頬を伝った涙を手で拭う。泣き止むのは、案外難しくない。
たぶん、心が死んでいる時間が長すぎたのだ。こんな結末も、当然の帰結として受け入れられる。
研究室へ戻る車の中で、初音は「退勤したら夕飯を作る」アラームをその場でオフにした。
夕方五時。
寧々は大きな風船束を持って、上機嫌で帰宅した。
けれど「雪菜おばさんにママへ謝りなさい」と言われたことを思い出すと、笑みは消え、口を尖らせたままリビングをそっと窺う。
初音はいない。出迎えたのはメイドだけ。
「初音は?」
和也は無意識にスーツを預けようとして、彼女がいないことに気づき、動きを止めた。
「奥様は……ずっとお戻りではありません」
メイドも驚いた顔だ。ご一緒にお帰りになるものとばかり思っていた。
「ふん、帰ってこないなら帰ってこないでいい!」
寧々は風船を放り投げ、ソファに跳び乗った途端、顔をほころばせる。
「このチャンス逃したら、もう謝らないもん!」
「雪菜ママがね、ママは考えすぎで怒っただけって言ってた! 謝っても、ただ機嫌取るだけで、わたし悪くないもん! 子どもなんだから、言いたいこと言っていいの!」
そして和也の顔色を窺い、反論がないのを確認すると、甘え声で言った。
「パパ、雪菜ママが買ってくれたケーキ食べたい! あとお菓子!」
和也は「ん」とだけ言い、床の紙袋から菓子を取り出し、成分表を確認する。
寧々は目を輝かせて待った。
「どれも駄目だ。アレルゲンが入ってる」
和也は袋へ戻した。
「田中さんのご飯を食べろ」
寧々の顔が一気にしぼむ。
「やだぁ……」
田中さんの料理はおいしくない。空腹のほうがマシ。
――ママの料理がいい。誕生日には、アレルギーが出ないココナッツケーキを焼いてくれるって言ってたのに。
すぐ帰ってきてご飯を作ってくれるなら、謝ってあげてもいいのに。
子ども用のスマートウォッチで電話をかける。呼び出しは長いのに、初音は出ない。
寧々はすぐ和也のところへ走り、告げ口した。
研究室。初音はドラフトチャンバーを止めて、ようやくスマホがずっと鳴っていたことに気づいた。
手袋を外して通話に出る。声は平坦だ。
「……もしもし」
片手はパソコンでパラメータと配合比を調整している。どこか上の空だ。
「昨日の件は確かに俺が悪かった。事前に、誕生日の席が祝勝会になるって言わなかった」
和也の声は忍耐強い。
「小川家とは取引が多い。顔を立てる必要があった。理解してくれ」
初音は少し間を置いた。
「六年間、ずっと理解してきた」
そのたびに譲った。もう疲れた。
「どういう意味だ?」
和也の声が硬くなる。
初音が口を開く前に、今度は寧々の声が割り込んだ。
「ママ、ごめんなさい!」
五文字が早口で、謝罪とは呼べないほど雑に流れていく。
「これで満足? 満足したら怒るのやめて、早く帰ってご飯作って! ママの誕生日ケーキ食べたい!」
初音の胸が、氷の底に落ちる。
命を削って産んだ娘が、謝る理由すら「機嫌取り」だ。彼女を帰らせ、使用人みたいに料理をさせるために。
「和也、私――」
離婚の意思を言い直そうとした瞬間。
背後で、ジジッと嫌な音がした。
実験槽のナノロボットアレイが、小さな火花を散らしている。
心臓が跳ね上がる。初音は和也へ適当に言い捨てた。
「今、手が離せない。あとでかけ直す」
通話を切り、処置へ走った。
和也はスマホを握ったまま、わずかな驚きを覚える。
彼女が、先に電話を切った。――初めてだ。
まだ怒っているのか。
たかが誕生日の席が一回荒れたくらいで、そんなに大事なのか?
初音は研究室で徹夜し、一週間滞っていたデータを走らせ切った。
折り返しの電話は、とっくに忘れた。
二時間ほど浅く眠り、研究員へ要点を引き継いで外へ出る。
帰宅はせず、そのまま藤原家の庄園へ向かった。
賢治に確認したい。当時の約束は、まだ有効なのか。藤原家の株なんていらない。ただ自由がほしい。
だが門をくぐると、執事が言った。
「賢治様は風邪を召されまして、いまお休みで……」
「では、また出直します。急ぎではないので」
病人をこんなことで起こせない。踵を返そうとした時、正厅の入口に、すらりとした影が立った。
和也だ。
彼は初音を見て、視線を二秒ほど止める。
「昨夜はどこにいた?」
「研究室」
初音も、彼がここにいるとは思わなかった。
だが離婚の話をしないなら、余計な会話はない。よそよそしく会釈して去ろうとする。
「祖父にスープでも作りに来たのか?」
なぜか、さらに一言。
初音の料理が上手で、賢治が彼女のスープを好むことは藤原家で有名だ。
疑問形でありながら、答えは決まっている――そうでなくても、そうであるべき。
執事は慌てて手を振った。
「いえいえ! 賢治様は昼までお休みの予定ですし、栄養士の食事もございます。奥様はお忙しければ――」
だが和也が遮る。
「忙しいのか?」
初音はその場に立ち尽くし、笑えた。彼は命令しない。ただ態度で示す。――お前がやるべきだ、と。
「あなたは、何しに庄園へ?」
逆に問うと、和也は一瞬戸惑ってから答えた。
「書類を取りに」
「私も忙しい」
初音は平然と言う。
「あなたも忙しいなら、ついでに祖父に食事でも作ってあげたら?」
回りくどい言い方はせず、真っ直ぐに突き放す。
「孝行は私が十分やった。家宴でも、私が一番長く祖父に付き添ってたって言われてたでしょう。そろそろ、一番忙しい孫のあなたが孝行する番じゃない?」
言い切って、執事へ軽く挨拶し、歩き出す。
背後には、死んだような沈黙。
和也と知り合ってから、初音が彼に言い返したことは一度もない。――これが初めてだった。
庭を抜けると、花壇のそばに和也の従姉・藤原晴美が立っていた。乱れた薔薇を眺め、初音を見つけると当然のように顎で命じる。
「ハサミ持ってきて。剪定の仕方、教えてあげる」
六年間、初音は従順すぎた。和也の顔を立て、藤原家でも何でも引き受けた。
だから、誰もが彼女を踏み台にした。
初音は足を止めない。
「手、ないの?」
「……はあ? 何言ってるの?」
晴美は信じられない顔をする。
「和也に言いつけるわよ?」
「言えば?」
初音は堪え切れず吐き捨てた。
「私たち、もうすぐ離婚するから」
