第4章
初音は悟が差し出した手を見て、指先をわずかに丸めた。鼓動も早くなる。
助け舟を出してくれるとは思わなかった。ましてや今この場で、「投資」の話を切り出してくれるなんて。
その一言で空気が凍りついた。和也の不快な視線が重くのしかかり、雪菜は目を少し見開いている。
初音は薄く笑い、悟の手は取らずに軽く頷いた。
「上のほうが静かですし、確かに話には向いてますね」
彼女が先に手を差し出す。礼儀正しい紳士のように。
「どうぞ」
悟は眉を少し上げ、自然に手を引っ込める。表情を変えず、和也へ形式的に頷いてから、初音の後を追った。
「和也」
雪菜がすぐ和也に寄り、声を落とす。
「初音……あの西園寺さんと、ずいぶん親しそう」
「西園寺さんって医薬投資で顔が広い人でしょう? もしかして初音、あの人と――」
言わずとも想像できる余白を残す。
和也は黙ったまま、顎の線を硬くする。
二人が階段の踊り場へ消えるのを見送り、周囲の囁きがまた湧き上がった。
「西園寺さん、初音の先輩らしいよ……」
「昔から普通じゃない仲だったとか。初音が結婚しちゃったけど」
「今は……ほら、藤原社長の顔、真っ青」
「奥さんが子ども放って昔の男と投資の話とか、そりゃ面子潰れるわ」
和也は不快だった。
嫉妬などではない。純粋に――面子を潰された。
今まで初音は、外では常に彼の顔を立ててきたからだ。
彼は咳払いし、雪菜に言う。
「具合が悪いんだろ。あっちで座って休め」
口調は硬い。
雪菜は一瞬固まり、すぐに気遣う顔を作る。
「大丈夫。ちょっと息苦しいだけ」
そして、さらに煽るように言葉を重ねる。
「和也、あまり考えないで。初音はただの意地でしょ。誕生日の席がああなったのは、結局私のせいだし……辛くて、何かで自分の価値を証明したいだけだと思う」
「西園寺さんも、昔の情で適当に相手してるだけよ」
そう言いながら和也の顔色を窺うと、彼の眉間はさらに深く刻まれていた。
雪菜は続けた。
「寧々、家でママを待ってる。あんなに小さいのに、可哀想……」
「初音、昔はこんなじゃなかったのに。いくらなんでも子どもを放っておくなんて。最近ストレスがすごいのかも。何か困ってるのかな?」
和也の指がグラスを強く握る。
困る? 家のことは何もさせていない。子どもだって見ている。研究室には投資まで提案した。
それなのに彼女は、庄園で恥をかかせ、電話を切り、今度は男と連れ立ってこの場を去った。
意地にも限度がある。
和也はグラスを置く。
「休んでろ。ちょっと行ってくる」
雪菜が返事をする前に、彼は大股で階段へ向かった。
二階の休憩エリアは私的で、厚い絨毯が足音を吸い込む。
初音と悟は窓際の小さな丸テーブルに座った。
「……ありがとう」
初音の声は乾いていた。
悟は手を振る。表情は一階にいた時より和らいだが、目の奥には不満が残る。
「今でも覚えてる。君が課題チームを辞めた時、指導教授は数日まともに飯が食えなかった。『君は稀に見る才能だ、主婦になるな』って」
「それでも君は言った。――和也には価値があるって」
鼻で笑うような皮肉。
初音は睫毛を揺らし、視線を落とす。
「ごめん。期待を裏切った」
「期待なんてしてない。選ぶのは本人だ」
悟の声は淡い。
「ただ、再会がこんな形だとはな」
彼は少し間を置いて尋ねた。
「和也は君の仕事を支持してないように見える。さっきの言葉は意地か、それとも本気か。家庭を捨てて、仕事を選ぶ覚悟はできたのか?」
初音は喉を鳴らし、顔を上げて正面から見た。
「決めた。彼のためにキャリアを捨てる価値はない――二度も」
悟は肩をすくめ、赤ワインを手にする。
「なら信じよう。投資の話をするなら、プロジェクトを聞かせて」
初音の目がぱっと明るくなる。彼女は咳払いし、自分もワインを取り、軽く合わせた。
それから、研究の全体像を途切れなく説明し始めた。
語速は落ち着き、構成は明快。研究室で光っていた首席専門家の顔が戻る。
悟は彼女を見つめ、目の奥の冷たさが少しずつ溶けていく。
質問と解説。いつの間にか距離が縮まっていた。
初音はもともと目を惹くほど美しい。集中している時、伏せた睫毛が浅い影を落とす。悟もまた洗練された端正な顔立ちで、二人が並んで座る姿は、まるで精巧に描かれた一枚の絵画のように調和していた。
ただ、その光景が、階段を上がってきた和也の目には――痛々しいほど刺さった。
彼は近づく。
「初音」
落ち着いた声。だが圧がある。
長年の癖で初音は立ち上がりかけ、すぐ踏みとどまる。冷たく言った。
「何?」
和也は悟に一瞥をくれ、初音に向ける。
「話は終わったか。終わったなら帰れ。寧々が何度も電話してた。会いたいって。子どもに本気で張り合うのか? 母親なら責任感を持て」
またそれだ。
初音は目を閉じ、開く。
「今は西園寺さんと仕事の話。研究室の投資の件よ。寧々が会いたいなら電話すればいい。あなたが連れて来てもいい――あなたたちが望むならね」
和也の堪忍袋が切れた。声が跳ね上がる。
「初音! お前は昔はこんなじゃなかった! 誕生日の席が気に入らないからって、責任感まで捨てるのか? 子どもも見ないのか!」
「責任感がない?」
初音は可笑しさに喉が鳴り、立ち上がって真正面に立つ。一語一語、叩きつける。
「和也。私に責任感があるかどうか、この六年、あなたは見てこなかったの?」
「寧々は手のかかる子だった。生まれて一年、二時間続けて眠れた夜なんてほとんどない」
「三十種類以上の食物アレルギー。六年間、口に入るものは全部、私が作った。夜は暗いのが怖い、雷が怖い、一人が怖い――だから私は一晩中抱いて、あやしてきた。初めて歩いた時、初めて喋った時、初めて幼稚園に行った時……大事な瞬間は全部、私がいた!」
