第6章
初音は梨乃の家の客室で、久しぶりにゆっくりと朝寝坊をした。
目を覚ますと、すでにカーテンの隙間から陽光が差し込み、床に斑な光の欠片を落としていた。
ベッドから降りてカーテンを引き、窓を開けて風を入れる。
二日酔いによる軽い頭痛は残っていたが、心には不思議なほどの軽やかさがあった。
六年間背負い続けてきた重い殻が、ようやく砕け散ったのだ。
梨乃は早起きしたのか、あるいは一睡もしていないのか、オープンキッチンで目玉焼きを作っていた。コーヒーメーカーがごぽごぽと音を立て、芳醇な香りが漂っている。
「起きた? 頭、まだ痛い?」
梨乃はコーヒーを二杯持って歩み寄り、そのうちの一杯を渡してきた。
「ほら、早く飲んで目を覚ましなよ。悟と約束してるんでしょ、遅刻しないようにね」
初音はコーヒーを受け取り、一口すする。苦い液体が喉を滑り落ちると、体がびくっと震え、意識がしゃきっとした。
「うん、資料は全部準備してある」
「ならいいけど」
梨乃は向かいに座り、トーストをかじりながらモゴモゴと言った。
「そういえば昨日の夜、お父さんに少し話しておいたんだ。あんたの研究の方向性に興味があるみたいで、時間がある時にでも話を聞きたいってさ」
「おじさんに、お礼を伝えておいて」
初音は胸が熱くなるのを感じた。
梨乃の父親はビジネス界で顔が広い。彼に関心を持ってもらえること自体が、一つの大きな肯定だった。
十時ちょうど。初音は時間通りに、悟の会社の下にあるカフェに到着した。
悟はすでにそこで待っていた。目の前にはノートパソコンと紙の資料が広げられている。
「おはようございます、西園寺さん」
初音は歩み寄り、彼の向かいに座った。
悟は顔を上げる。
「おはよう。そんなに他人行儀にしなくていいよ。先輩って呼んでくれ、その方がしっくりくる」
二人は前回話しきれなかった話題の続きに入り、和やかな空気が流れた。
その時、少し甲高い女の声が唐突に割り込んできた。
「あら、誰かと思えば。うちの藤原家の出来のいいお嫁さんじゃない」
初音の体が強張る。振り返ると、ブランド物のスーツに身を包んだ晴美が、八歳になる息子を連れて立っていた。
その顔には隠そうともしない嘲笑と値踏みするような色が浮かんでいる。視線が初音と悟の間を往復し、最後に初音の顔で止まると、薄ら笑いを浮かべた。
まるで、とんでもない弱みを握ったとでも言いたげに。
「初音、家でちゃんと子どもの面倒も見ないで、こんな所で別の男とコーヒー?」
晴美は眉を吊り上げ、言葉の端々から軽蔑を溢れさせる。
「何? 藤原家があなたにひもじい思いでもさせてるってわけ? そんなに急いでビジネスごっこがしたくてたまらないの?」
悟が眉をひそめ、口を開こうとした時、初音は彼の掌をそっと押さえ、自分で対処するという合図を送った。
彼女は立ち上がって言った。
「晴美お義姉さん、奇遇ですね。実を言うと、和也が私の研究室への出資を打ち切ったので、自分で資金を集めるしかなくて。今、ちょうどその話をしているところです」
「資金集め? あんたが?」
晴美は鼻で笑う。
「冗談でしょ。あんたの研究室が金食い虫なのは誰だって知ってるわよ。和也が遊びでお金を出してくれただけでもありがたいと思いなさい。他の人が本気で投資してくれるとでも? 騙されてるのに気づかないで、喜んでるんじゃないの!」
そう言いながら、彼女は悟を上下にジロジロと見て、さらに見下すような視線を向けた。
傍らで息子が彼女の服の裾を引っ張り、小声で言った。
「ママ、砂のお城で遊びたい」
晴美の棘のある嘲りの表情が、一瞬にして優しくなる。身を屈め、息子の小さな頬をつまんだ。
「待っててね、すぐ終わるから」
そして車の鍵を取り出すと、いつものようにキーホルダーを人差し指でくるりと回し、初音に向かって投げつけた。
「私、ちょっと用があるの。車、あそこに停めると邪魔になるから、裏の駐車場に移動しておいて」
その傲慢な態度は、まるで自家の使用人を顎で使っているかのようだ。いや、使用人相手にすら、ここまで無礼な振る舞いをする人間は少ない。
初音は車の鍵を受け取った。だが、晴美が息子を連れて行こうとした瞬間、その鍵をテーブルの上に置いた。カン、と乾いた音が鳴る。
彼女は淡々とした声で言った。
「ごめんなさい、今手が離せないので、自分で移動してください」
晴美は、まさか自分が初音を使えなくなるとは思ってもみなかったようで、途端に顔を曇らせた。
「初音! 何よその態度は? 手伝わせてあげてるのは、あんたを立ててあげてるからでしょ! 自分の身分を忘れたの? 藤原家に居たくないわけ!?」
「ええ」
初音のその一言に、晴美は言葉を詰まらせた。
晴美は怒りで顔を赤くしたり白くしたりして、初音を指差す指先まで震わせている。
「いいわ、いいわよ! ずいぶんと偉くなったものね。分かった、覚えてなさい!」
そう言い捨てると、息子の手を引き、怒りに任せて歩き去った。口元からは、汚い呪詛の言葉が小声で漏れている。
悟は初音の顔色を窺い、心配そうに言った。
「大丈夫か……? 藤原家の人たちは、本当に……」
「平気です」
初音は首を振り、深呼吸をしてから座り直した。
だが、コーヒーカップを手に取る指先は、わずかに震えていた。
晴美が怖いからではない。軽んじられ、好き勝手に使われる――あの息詰まるような感覚が、たまらなく不快だったのだ。
それでも彼女はすぐに気を取り直し、悟に申し訳なさそうに微笑んだ。
「すみません。続けましょう」
悟は彼女の微かな笑顔を見て、それ以上は何も言わなかった。
――
藤原家の別荘。
和也は幼児教室から寧々を迎えに帰ってきたばかりだった。
小さな娘は遊び疲れたのか、彼の腕の中でうとうとしている。
「お帰りなさいませ、旦那様」
使用人の田中が出迎えた。
「ああ」
和也は娘を田中へ渡す。
「風呂に入れて、少し寝かせろ」
部屋をぐるりと見渡し、彼は眉をひそめた。
「……奥様は? まだ戻らないのか? たかが誕生日会くらいで、いつまで拗ねているつもりだ」
田中の顔に困惑の色が浮かぶ。
「奥様は……今朝お電話がありまして、最近研究室で緊急のプロジェクトが入ったから、数日出張すると。寧々お嬢様のことはよろしくと……」
「出張?」
和也は呆気にとられ、直後に名状しがたい怒りが込み上げてきた。
昨夜あんな騒ぎを起こしておいて、今日は帰宅するどころか、そのまま出張だと? 娘のことも放り出して? いつからそんなに自分勝手になったんだ?
「どこへ行くと言っていた? 何日だ?」
「場所は仰っておりませんでした。ただ、忙しくなるから、用事があれば研究室の同僚に連絡してほしいと……」
田中はそう言いながら、恐る恐る主人の顔色を窺った。
和也の顔色はさらに沈んだ。
彼はスマートフォンを取り出し、初音の番号を探して発信した。
長くコール音が鳴ったが、誰も出ない。
もう一度かけると、今度は直接切られた。
胸の奥で燻っていた火が、さらに激しく燃え上がる。
いいだろう。上等だ、初音。ずいぶんと度胸がついたな。
彼は苛立たしげにネクタイを緩め、田中に命じた。
「寧々を見てろ。俺は夜、外で食う。帰らない」
別荘を出て車に乗り込んでも、まだ気が収まらなかった。つい先ほど、晴美から電話で告げ口されたことも拍車をかけている。初音がカフェで男と親しげにしていた、などと。
確かに、彼は初音を愛してなどいない。だが、妻である彼女がそんな真似をするのは、俺の顔に泥を塗る行為に他ならない!
説明が必要だった。そして、今のこの得体の知れない苛立ちを、誰かに宥めてほしかった。
指が連絡先の上を滑り、最終的に「雪菜」という名前で止まった。
かけようとしたその時、思いがけず雪菜の方から着信があった。
「和也、私……妊娠したみたい。たぶん、私たちのあの夜……」
