第7章
和也はハンドルを握る指をぎゅっと締め、頭の中がぐわんと鳴った。
妊娠? 彼と雪菜が……あの夜……。
記憶は少し曖昧だ。一ヶ月前、ビジネスのレセプション後の付き合いで、彼は少し飲みすぎた。彼をホテルのスイートルームまで送ってくれたのは雪菜だった。
翌朝目を覚ますと、雪菜は一糸まとわぬ姿で彼の腕の中にいた。
あの時、彼女は「酔っていたから」と淡々と言い、このことはただの事故として忘れてほしいと頼んだ。
和也もわざわざ波風を立てるような性格ではない。仕事の忙しさも手伝って、それきりその話題には触れず、以降も雪菜とは普段通りに接してきた。
だが今、彼女は妊娠したと言っているのか?
「雪菜」
喉が張りつき、声が少し掠れる。
「確かなのか。いつからだ」
電話の向こうから、雪菜の泣きじゃくる声が聞こえる。
「私……私にもよく分からないの。生理が……一週間遅れてて。それに食欲も変で……一日中悩んだけど、やっぱりあなたに言わなきゃって」
「もし本当に妊娠してたら、どうしよう……。初音さんのこともあるし……私……あなたの家庭を壊したくない……」
その可憐な泣き声は、和也の混乱した脳を一つ一つ叩きつけるようだった。
あの夜のことは、結局のところ彼にも責任がある。
もし本当に子どもができていたら……。
「まずは落ち着け」
和也は目を閉じ、深く息を吸い込んで胸の苛立ちをねじ伏せた。
「今から迎えに行く。病院で検査して、確認してからだ」
「うん……ありがとう、和也」
雪菜の声が柔らかく和らぐ。
「家で待ってる」
電話を切った和也は、ハンドルを思い切り拳で殴りつけた。鈍い音が車内に響く。
初音は機嫌を損ねて姿を消し、雪菜は妊娠の疑い。さらに従姉の言葉まで。まるで全ての問題が一度に押し寄せ、ぐちゃぐちゃに絡まり合っているかのようだ。
彼は眉間を強く揉みほぐすと、エンジンをかけ、雪菜のマンションへと車を走らせた。
とにかく、目の前のことを片付けるのが先だ。
雪菜を拾うと、確かに彼女の顔色は優れなかった。青白く、目の奥には怯えの色が浮かんでいる。
和也は私立病院へ連れて行くつもりだったが、雪菜は「知り合いに見られたくない」と言い、少し離れた病院を希望した。
和也は深く考えず、彼女の言う通りにした。
検査結果が出るまでには時間がかかる。待っている間、和也は初音に何度か電話をかけたが、相変わらず出ないか、切られるかのどちらかだった。
彼の顔色は次第に険しさを増していく。
和也の苛立つ様子を見て、雪菜が優しく尋ねる。
「……初音さん? まだ怒ってるの? やっぱり私、もう一度謝りに行こうか」
「必要ない」
和也は遮り、硬い声で言った。
「あいつが勝手に拗ねてるだけだ。放っておけ」
その時、彼のスマホが再び鳴った。晴美からだ。
「和也! どこにいんのよ! もう腹立つ!」
晴美の荒々しい声が響く。
「今日ほんと最悪。あんたの嫁が他の男と遊んでるのに出くわしたと思ったら、息子連れて戻ってみれば車までぶつけられてるし!」
「もう知らない、この件はあんたにも責任あるんだからね。どうしてくれるのよ!」
和也は呆れつつも可笑しくなった。晴美も本気で責任を取れと言っているわけではないと分かっている。口を開きかけたその時、雪菜が電話を代わった。
二、三言交わすうちに、電話口から笑い声が漏れる。
「はあ、最初から和也が結婚したのがあなただったらよかったのに。初音なんてただの役立たずよ。何一つまともにできないし、ちょっと用事を頼んでも動こうともしない。離婚するって口うるさく言ってるんだから、和也もさっさと別れちゃえばいいのよ。後で泣きついてくるのがオチなんだから!」
雪菜はふふっと笑い、子どもも連れて夜に一緒に食事でもどうかと誘った。
和也もちょうどそう考えていたところだ。どうせ検査結果はまだ出ないのだから、ずっとここで待っている必要もない。
夕方。和也は車を出し、まず家に戻って寧々を乗せ、さらに雪菜と共に晴美と八歳の息子である蓮を迎えに行き、高級レストランへと向かった。
道中、初音の話題になると、晴美はまだ怒りが収まらない様子だった。
「和也、あいつには一度きつくお灸を据えてやりなさいよ! この家で誰が一番偉いのか、思い知らせてやるのよ!」
「それに、あのくだらない研究室もさっさと潰しちゃいなさい! 外の世界にうつつを抜かして、変な男とつるむようになる前にね!」
寧々も小さな拳を振り上げる。
「そうだよ! ママ、もうずっとご飯作ってくれないもん。悪いママ!」
「まあまあ、二人とも落ち着いて」
雪菜が優しくなだめる。
「初音さんも、ちょっと考えがこんがらがってるだけかも。帰ってきたら、和也にちゃんと話してもらえば、きっと直るよ」
「何を直すって?」
背後から声がした。
全員がハッとして振り返ると、そこには初音の姿があった。
彼女一人ではない。隣には悟がいる。
二人の距離は決して近くはなかったが、なぜか妙にしっくりと馴染んでおり、まるで最初から並んで立つべきだったかのように見えた。
和也はただでさえ腹の底に怒りを溜め込んでいた。この光景を目の当たりにし、顔色が一気に沈み込む。
「奇遇だな」
和也の視線が二人の間を冷たく行き来する。
「電話に出ないと思ったら、こいつと一緒だったのか。どうした、家の飯が不味いのか? それとも外の飯のほうが旨いか?」
初音の顔から一瞬血の気が引き、クリアファイルを握る指にぎゅっと力が入る。
悟が一歩前に出て、彼女を庇うように微笑んだ。
「藤原社長も、そう思っていらっしゃるようですね。ご自分も同じことをなさっているのに、奥様だけを責めるのはいかがなものでしょうか」
「俺も同じだと?」
和也は鼻で笑った。
「西園寺さん、だったか。忘れているようだが、初音は今、藤原家の妻だぞ」
そう言いながら、彼も一歩距離を詰める。
「初音。普段お前が何をしようが、誰と飯を食おうが、俺は一度も止めたことはない。だがな、俺にも越えちゃならない一線がある」
「あなたの一線って何?」
初音はようやく口を開いた。声は大きくないが、はっきりと芯がある。
「私は仕事をしているの。研究室の未来のために努力してる。あなたは? あなただって雪菜と一緒にディナーを楽しんでいるじゃない。どうして、自分の浮気は棚に上げて、私が他の男性と食事をすることすら許さないの?」
「いいだろう」
和也は氷のように冷たい声で放った。
「今ここでそうやって突っ張るなら、藤原家がお前の研究室に金を出し続ける必要があるかどうか、考え直させてもらうぞ」
「藤原社長にご心配いただくには及びません」
悟がすかさず引き取る。
「初音さんの研究室への投資は、我々西園寺グループが引き受けます。私は彼女の能力と、プロジェクトの将来性を信じていますので」
「貴様、何様のつもりだ!」
和也の顔が完全に凍りついた。
「初音、これが最後のチャンスだ。今すぐそいつから離れて、俺と帰れ!」
こちらの騒ぎに、周囲の客たちがちらちらと視線を向けてくる。
晴美は腕を組み、嫌味たっぷりに言い放った。
「和也、ほら見なさい。私の言った通りじゃない? 夜遅くにどこの馬の骨とも知れない男と食事なんて、こんな女、いつまで置いておくつもり?」
