第9章

「あんたね……!」

晴美は言葉に詰まり、顔を青筋立てて睨みつけた。

「もう、初音ちゃん、晴美さんにそんな言い方しないで」

雪菜が慌ててその場を取り繕い、和也の小皿におかずを取り分けながら、甘い声で続ける。

「私たちだって、初音ちゃんのためを思って言ってるのよ。あんまり無理してほしくないから」

「それに、あのプロジェクトのこと、私も少しは知ってるけど、相当な専門知識がないと難しいみたいだし。意地を張って無理な仕事に手を出すより、自分が本当に得意なことをやったほうがいいんじゃないかな。ね?」

一見なだめているようで、その実、初音の能力を容赦なく貶めている。彼女の価値は「人の世話」にしかないと決めつけるような物言いだった。

初音は反論しようと口を開きかけ――ふと、蓮がいつの間にか椅子から降り、隣の空席に置いた書類袋のそばにしゃがみ込んでいるのに気づいた。

その袋の中には、今日の午後、悟とまとめたばかりの提携案の概要と、重要な技術レポートが入っているのだ!

心臓が跳ね上がる。初音は思わず鋭い声を上げた。

「触らないで!」

だが、遅かった。

突然の怒声に蓮はビクッと肩を揺らしたが、直後、反抗心に火がついたように、手を止めるどころか袋を鷲掴みにし、力任せに引きちぎった。

ビリッ――!

油紙の袋は子どもの腕力に耐えられるはずもなく、無残に裂け、中から書類が雪のようにばさばさと床へ散らばった。

初音は慌てて駆け寄るが、蓮はわざと嫌がらせをするように散らばった紙の上へ飛び乗り、ゲラゲラ笑いながら踏み荒らす。

「ばーか! なにもできない大ばか! つかまえてみろよーだ!」

初音の頭に血が上る。

床で無残に踏みにじられた書類――それは、彼女が幾日も徹夜して作り上げた心血の結晶だ。

もちろん、パソコンにバックアップはある。だが、自分の努力がここまで侮辱されて、名状しがたい怒りが込み上げてこないはずがない。

怒りで全身が震える。初音は厳しい声で晴美を問い詰めた。

「自分の子どもが何をしたか見て! これがあなたの躾なの!? 今すぐ謝らせて! 書類を拾わせて!」

晴美はその剣幕に一瞬呆気にとられた。彼女の記憶の中で、初音がこれほど感情を露わにして怒鳴ったことなど一度もない。

だがすぐに眉を吊り上げ、テーブルをバンと叩いて立ち上がった。

「初音! 何を大声出してんのよ! たかが紙切れ数枚じゃない! 子どもが分かるわけないでしょ! ちょっと遊んだくらいで何よ! 大人が子ども相手にムキになって、器が小さいにもほどがあるわ! うちの子が怯えてるじゃないの!」

「だいたい、そんなに大事なものなら、バックアップくらい取ってるでしょ!」

和也も淡々と言い放つ。

「バックアップすら取っていないようなら、以前君に投資した金はドブに捨てたのと同じだな」

初音は堪えきれずに言い返した。

「そういう問題じゃないでしょ? 自分の大事なものを壊されて、馬鹿にされて、それでも平気でいられるの?」

言い終えた瞬間、巨大な悔しさが込み上げてきた。唇を強く噛みしめる。胸の奥が鈍く痛んだ。

晴美が理不尽なのは今に始まったことではない。だが、和也まで同じだなんて……。この男は一度たりとも、自分を対等に見たことがないのだと、これほどはっきりと悟った瞬間はなかった。

彼にとって、自分は都合のいい高級な家政婦にすぎない。家庭の雑事をすべて処理する使用人。どれだけ完璧にこなそうと、使用人は使用人であり、彼から少しの敬意すら得られるはずがないのだ。

彼女に研究の才能があるとも微塵も思っていない。以前投資してくれたのも、彼にとっては端金であり、ただの「度を越した悪ふざけ」を許容してやったにすぎない。

だからこそ、彼女が本気でプロジェクトに取り組む姿は、彼の目には「度が過ぎた悪ふざけ」としか映らない。

初音は力なく自嘲した。

これが、六年間尽くし、深く愛した男の正体だ。

何か言おうとしたその時、またしても雪菜が前に出た。困ったように小さくため息をつき、初音のそばに寄って肩を軽く叩く。

「初音ちゃん、怒らないで。蓮くんはまだ小さいし、何も分からないの。間違ったからって、大人が本気で子どもを責めることじゃないでしょう?」

その声は柔らかく、誠意たっぷりに響く。

「どうしても怒りが収まらないなら、私が代わりに謝るから。ね? 家族なんだから、仲良くするのが一番よ。こんな小さなことで空気悪くする必要ないじゃない?」

そう言いながら、雪菜は振り返って熱いお茶を注ぎ、両手で湯呑みを捧げ持って初音の前に差し出した。姿勢を極端に低くし、殊勝な口調で言う。

「初音ちゃん、ごめんなさい。全部私が悪かったの。子どもをちゃんと見てなかったから」

「大人なんだから、許してあげて。これ飲んで落ち着こう? ね?」

その芝居がかった態度は、怒り狂う初音を、いかにも「器が小さく、執念深い女」に仕立て上げていた。

晴美は満足げな表情を浮かべ、和也の険しい眉間もわずかに緩む。

初音は目の前に差し出された湯呑みを見下ろした。湯気がふわりと立ち上っている。この場の空気が、ただただ吐き気がするほど気持ち悪かった。

「家族のこと」だと言うなら、雪菜はいったい何様のつもりなのか。なぜ彼女が謝る必要があるのか。

お茶を受け取る気もないし、この連中ともう一言も交わしたくない。息が詰まるようなこの場所から、今すぐ立ち去りたかった。

無意識に手を上げ、差し出された湯呑みを押し退けようとした。冷ややかな声で告げる。

「あなたの謝罪なんていらない。どいて」

力は入れていない。ただ、避けようとしただけだ。

――だが、初音の指先が湯呑みの縁に触れたか触れないかの瞬間、悲鳴が上がった。

雪菜は、まるで強く突き飛ばされたかのように、熱いお茶を全身に浴び、無様に後ろへよろけて尻餅をついた。

彼女は悲鳴を上げ、苦痛に顔を歪めて唇を噛む。両手で下腹部を強く押さえ、激痛に耐えるように体を丸めた。

「雪菜!」

和也の顔色が変わり、勢いよく立ち上がって駆け寄る。

晴美も怯えたように叫んだ。

「雪菜! どうしたの!?」

寧々も泣き出しそうな顔になり、初音の体をドンと強く突き飛ばして叫んだ。

「なにしてるの! 雪菜おばさんいじめないで! もし雪菜おばさんに何かあったら、絶対許さないから!」

初音は呆然と寧々を見つめた。顔からさっと血の気が引く。娘のその一言は、刃物で刺されるよりも深く彼女の心を抉った。

皆が雪菜を取り囲んで心配する中、床にうずくまる雪菜の体は小刻みに震え、浅いベージュのスカートの裾に――見る見るうちに、目を刺すような暗赤色の血が滲んで広がっていく!

雪菜自身もパニックに陥ったような顔をした。

「和也、お腹が、すごく痛い……私……流産しちゃうの? 助けて……赤ちゃん……私たちの子を助けて……」

和也の表情が暗く歪み、顎の筋肉がこわばる。彼は初音を憎悪に満ちた目で一瞥すると、すぐさま救急車を呼んだ。

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