第2章 彼の恋人になる
オーロラ・ロスの視点
帰国してから、アレックス・フィリップと再会する場面を想像しなかったわけじゃない。
でも、こんな形で彼の前に現れるなんて、思いもしなかった。
私は俯き、スカートの裾をきつく握りしめる。
……最悪だ。
馴染みの声が、くすりと笑った。
彼が一歩、また一歩と近づくたび、ジャックは慌てて私の腕を放し、怯えたように脇へ退く。
アレックスの影が、私をすっぽり覆う。
私は意地でも顔を上げず、どうか気づかれませんようにと祈った。
――けれど次の瞬間、耳元に落ちてきたのは、氷みたいに冷たく嘲る声だった。
「さて、誰かと思えば。オーロラ? どうして黙ってる」
「さっきは俺に助けを求めてたくせに」
血の気が引いた。
ジャックは何かを察したのか、媚びるように笑う。
「陛下……この女、ご存じで?」
「陛下がご興味あるなら、どうぞご自由に。俺はこれで」
そう言い捨てると、奴は逃げるように去っていった。
まるで荷物みたいに「譲り渡された」感覚が、私をさらにみじめにする。よりにもよって、アレックスの前で。
でも、彼がいなければ――私は今日、ジャックの手に落ちていた。
私は立ち上がり、こわばった声で言った。
「……ありがとう」
アレックスは返事をしない。
私も、顔を上げる勇気がなかった。
私は、容赦なく彼を振った元恋人だ。
それなのに今日、助けを期待した。自分でも情けないと思う。
当時のことを思えば、私たちが「元恋人同士が再会して、ホテルで一回」なんて関係に戻れるはずがない。
彼は私を憎んでいる。きっと。
今のアレックスの立場なら、初対面で私を殺さず、手を差し伸べただけでも慈悲だ。
厄介な元恋人として、私は早く視界から消えるべきだ。
気まずく距離を取る。
「……私も、失礼します」
踵を返した、その瞬間。
黙っていたアレックスが口を開いた。
「帰る? 俺の許可を得たのか?」
廊下の先で、ボディガードたちが道を塞ぐ。
足が止まった。
次の瞬間、熱を帯びた手のひらが私の顎を持ち上げた。掌の硬い茧――長く銃を握る人間のそれ。
顎を掴まれ、無理やり視線を合わせられる。
碧い目は危険で、私の甘さを笑っているみたいだった。
指先で頬を擦られ、赤い跡が残る。
「オーロラ。俺たちの「清算」は、まだ終わってない」
アレックス・フィリップの視点
ロス・グループが潰れたと聞いた時点で、オーロラが帰国すると分かっていた。
彼女の飛行機が着陸するのに合わせて、情報は机の上へ揃えられた。
この一か月、彼女が何をしていたかも――全部。
資料の写真の女は、驚くほど綺麗に笑っている。七年前、俺の前から消えた時と、ほとんど変わらない。
秘書のジェイコブに聞いた。
「お前は、彼女をどう思う?」
「ロス嬢を直接は存じませんが……集めた情報を見る限り、ご家族と会社のために尽くしている責任感のある方かと」
責任感?
笑わせる。
七年ぶりでも、その顔は相変わらず人を騙すのが上手い。
俺が最も苦しかった時、彼女は貧乏な俺を見下し、容赦なく別れを告げた。言葉で殴り、俺の尊厳を踏みにじった。
約束は全部忘れ、引き留める俺を置いていった。
別れの時、言ったはずだ。
――祈れ。俺に捕まらないように。
もし捕まえたら。
絶対に――逃がさない。
オーロラ・ロス POV
アレックスが手を上げ、背後のボディガードに下がるよう合図した。
廊下には、私とアレックスだけが残る。
私は彼に多くを負っている。胸が締め付けられるほど緊張した。
彼は、何をするつもり?
アレックスの指先が私の唇を押す。温かい指なのに、言葉は冷たかった。
「ロス・グループが潰れて、親は収監。投資家を探して回ってるらしいな」
「すべてを失うのは、俺の時と同じだ。どんな気分だ?」
「長い付き合いだ。助けてやってもいい」
私は呆然と見つめた。
――そんなに簡単なはずがない。
「……何が目的?」
彼は私の頬を挟み、左右に視線を走らせる。笑っているのに、背筋が凍る。
「裸になれ。俺の前で」
反射的に手を振り払った。
これが復讐? 私を娼婦みたいに扱って辱めるつもり?
この一か月、似た言葉はいくつも浴びせられた。
でも相手がアレックスだと、いちばん痛かった。
「あなた、狂ってる!」
胸がきりきり痛む。逃げようとした手首を掴まれる。
「脱がないなら、俺の愛人になれ」
「絶対に嫌!」
怒りで震える私に、アレックスの忍耐が切れた。
壁へ押しつけられる。碧い瞳が冷たく、憎しみで濁る。
「今のお前に、誇りを語る資格があるのか」
「まだ知らないだろ。イウェイ・グループが裁判官を買収した。親の判決は前倒し、明日には有罪確定だ」
「オーロラ、選べ。安い尊厳か、親と会社か」
言葉が胸を貫いた。
イウェイ・グループは、ずっとロスの買収を狙っていた。
もし彼の言う通りなら――今夜が、最後の猶予。
現実に気づき、私はみじめに目を閉じた。
言われた通り、今の私に誇りなどない。
投資がなければ、何ひとつ守れない。
「……分かった。あなたの条件を飲む」
