第5章 彼女はそもそも帰国するつもりなどなかった
アレックス・フィリップの視点
激しい情事が終わると、オーロラはすぐに眠りへ落ちた。
眠っている間も眉間には皺が寄ったまま。相当、疲れているらしい。
無意識に俺の胸へ寄り、目尻から涙がひとつ、こぼれた。
昔なら――彼女が泣くたび、俺はそうしてきた。だから反射で、唇を落としてその涙を拭う。
俺はその顔を、隅々まで見た。七年ぶんの変化を確かめるみたいに。
学生の幼さは消え、落ち着きと自信が滲み、魅力だけが増している。長い黒の巻き髪は汗でわずかに湿り、隣で静かに眠る姿は、純白の天使みたいだ。
だが、騙されない。
本当のオーロラは冷たく、金に目がなく、その赤い唇でどんな毒でも吐ける。
家に不幸が起きなければ、帰国などしなかった。国内に置き去りにした俺のことなんて、思い出しもしなかったはずだ。
小さな顔を片手で包む。俺の手のひらだけで十分だ。
眠ると唇が少し開く癖がある。口づけには都合がいい。
歯で柔らかな唇をなぞり、堪えきれず少し強く噛んだ。
彼女の眉間の皺がさらに深くなる。それを見て、胸の奥の息苦しさがようやく薄れる。
――いい。戻ってきた。いまは俺の腕の中だ。
最後に赤い唇を指で撫で、襟元を整えて立ち上がる。俺はそのまま部屋を出た。
車は会社の前で静かに止まった。
社長用エレベーターを降りると、秘書のジェイコブが笑顔で迎え、手際よく執務室のドアを開けて、温度のちょうどいいコーヒーを差し出す。
「ボス、先ほどFoster様がいらしていました。ご用件は伺えず……ご不在でしたので、お帰りに」
来る途中で、クレアからの着信は見ていた。短く返信して顔を上げると、ジェイコブがじっとこちらを見ている。
「何だ」
「今日、機嫌が良さそうですね」
言った瞬間、言いすぎたと気づいたらしい。ジェイコブは慌てて一歩退き、そそくさと下がった。
静かな執務室。ソファに身を沈める。
機嫌がいい? 俺が?
家で眠っているオーロラを思い浮かべ、口角が上がる。
その時、電話が鳴った。クレアだ。
「アレックス、個展を開きたいの。宣伝に使える有名な作品をいくつか借りたい」
「ちょうど明後日、アートのオークションがあるでしょう? 一緒に行ける?」
個展。
俺は机を軽く叩いた。
十八歳のオーロラの夢が、たしかそれだった。全科目オールAを取って、嬉しそうに笑いながら言った。
『アレックス、先生が褒めてくれたの。私、卒業したら個展を開きたい。私の美意識をみんなに見てもらうの』
『その時、あなたが解説してね。あなたはいつも、私の絵が伝えたい感情を分かってくれるから』
沈黙が長かったのか、クレアの声が少し揺れる。
「忙しい?」
俺は思考を切り上げた。
「行く」
*
オーロラ・ロスの視点
アレックスの乱暴さのせいで、腰は二、三日痛み続けた。
全部放り出してベッドに沈みたいのに、現実はそんな贅沢を許さない。
ロス・グループの混乱で、社内には別の思惑を抱えた連中が動き始めている。権限を取り戻し、会社を回さなければならない。早く、正常に。
アレックスの援助で、倒産の危機はいったん回避できた。
けれどあれは応急処置にすぎない。ロス・グループを本当に立て直すには、彼一人に頼るわけにはいかなかった。
人は結局、利で動く。
破綻した途端、旧来の取引先は一斉に手のひらを返した。だから私は、新しい案件を探し続けるしかなかった。
担当者への連絡、企画の立案、詰め、契約。
ひとつひとつを、絵を描くみたいに丁寧に仕上げていく。
最終版の企画書を新しい相手へ送付し、メールを閉じようとした時だった。
「ジェイソン」から、見舞いの短いメールが届く。最近姿を見ないが、どうしたのか――と。
その数行を前に、手が止まった。
留学中、私は週末になると大学近くのレッドストーン公園へスケッチに出かけていた。景色は美しく、小動物も多い。観光客もどこか個性的で、眺めているだけで飽きない場所。
ジェイソンは、そこへよく来る常連の一人だった。
白髪でも精気があり、絵を見る目が鋭い。私の絵の欠点を、初対面でいとも簡単に言い当てた人。
それから私たちは連絡先を交換し、メールで芸術の話をするようになった。時には年長者のように、優しく気遣ってくれた。
私は少しだけ弱音を吐くつもりで返信する。
「家に事情があって、今はお金を作る方法を探しています。すみません、しばらく一緒に散歩できません」
返事は早かった。
「残念だ。しかし君なら乗り越えられる。もし資金が必要なら、自分の絵をオークションに出してみては?」
「君の絵なら、きっといい値がつく」
私の絵を、競売に?
画面を見つめたまま、息が止まる。無名の私の作品が売れるとは思えない。けれど――。
どんな方法でもいい。試したい。
私は海外にいるエイミーへ電話をかけた。
時差を頭で計算しながら、通話を繋ぐ。
「ねえ。数日後に帰国して、オークションをやるって言ってたよね」
「私の絵を、出品してもらえない?」
エイミーは留学中に出会った、最高の友人だ。各国のオークションを飛び回り、普段はなかなか捕まらない。けれど幸運なことに、今はアメリカにいるらしい。
「もちろん。任せて」
即答だった。
胸の奥の固いものが、ふっとほどける。
ようやく、少しだけ息がつけた気がした。
