第1章
茉奈視点
弁護士の声が、まるで水中を伝わってくるかのように空気を震わせる。何もかもが遠く、くぐもって聞こえる。
「こちらに署名を、赤井さん」
私の指が署名欄の上で止まる。自分でも気づくほど、微かに震えていた。磨き上げられた会議テーブルの上には、書類の山が広がっている。財産分与合意書の、これが十九回目の改訂版。十九回目。ペンは宙に浮いたまま、紙へと落ちようとしない。
七年間。馬鹿げた七年間が、この紙の山と、もっと何年も前に私が要求すべきだった資産リストに集約されてしまった。120億円の別荘。会社の株。投資ポートフォリオ。馬鹿げた話に聞こえるでしょう? 私の人生の七年間が、法律書類に書かれた冷たい数字と引き換えになったのだから。
不意に記憶が蘇る。三年前、オーダーメイドのウェディングドレスに身を包み、クリスタルのシャンデリアの下に立っていたあの日のこと。羽原直樹は、時間を見つけて市役所に婚姻届を出しに行こうと約束した。けれど三年が過ぎても、彼の時間はいつも別のどこかにあった。会社に。会食に。そして、彼の人生を次々と通り過ぎていく、若くて可愛い顔ぶれに。婚姻届はなかった。ただの見せかけだった。
一度目の浮気。二度目。三度目。そして、小林恵麻。彼が先延ばしにする口実を見つけ続けたせいで、この合意書は十九回も改訂された。でも、もうこれで終わり。
私はペンを手に取る。署名は紙の上を滑るように流れた。赤井茉奈。滑らかに、迷いなく。
弁護士が目を瞬かせた。「赤井さん、しょ、署名されたのですか?」
私は書類をテーブルの向こう側へ滑らせて返す。「彼が望んだことですから。これで彼は、あの恵麻さんと自由に結婚できる」
弁護士が返事をする前に、ドアがけたたましい音を立てて開け放たれた。顔を上げるまでもない。あの足音は、私の記憶に焼き付いている。急いでいて、重々しく、そして彼がうまく隠しているつもりの不安が滲み出ている足音。
羽原直樹が部屋に飛び込んできた。ネクタイは緩み、髪は乱れ、必死で取り繕った仮面からはパニックが血のように滲み出ている。私は彼を、道端の見知らぬ他人でも眺めるかのように見ていた。ただ無関心な好奇心だけで、それ以上でも以下でもない。
「待ってくれ、茉奈。本当にサインしたのか?」彼の声は、わずかに上擦っていた。
私は彼の目を見つめ返し、声のトーンを平坦に、冷静に保った。「これがあなたの望みだったんじゃないの? 私がサインすれば、あなたは自由になれる。行って、あなたの恵麻さんと結婚すればいいわ」
彼はテーブルに歩み寄り、合意書に手を伸ばす。弁護士がそれを手渡した。羽原直樹は狂ったようにページをめくり、一枚めくるごとに顔から血の気が引いていく。その手は震えていた。
「何も追加で要求しなかったのか? 別荘も、会社の株も、投資も……俺が提示したものを、ただ受け取っただけなのか?」
私は立ち上がり、わざとゆっくりとした動作でバッグを手に取る。「あなたが提示したものでしょう。受け取らない理由がないわ。私はあなたと一緒にいて、何もないところから全てを手に入れた。これは、私が稼いだものよ」
彼が口を開きかけた、その時。再びドアが開いた。
小林恵麻が白い服を着て、滑るように入ってくる。もちろん白。彼女は縄張りを主張でもするかのように羽原直樹の腕に自分の腕を絡ませている。その顔に浮かんだ微笑みは、その下に隠された勝利の感情を完全には隠しきれていない。まるで、鼠を追い詰めた猫のようだ。
彼女はわざわざ真正面まで歩み寄ると、人の視線を奪うための――あの、よく訓練された仕草で――片手をお腹のあたりへとすべらせた。瞳は挑むような光を宿し、きらりと輝いていた。
「茉奈さん……私たちを結ばせてくれて、ありがとう」彼女の声は、偽りの甘ったるさで滴っていた。「あなたにとって辛いことだってわかってる。でも、直樹さんと私、本当に愛し合ってるの」
彼女は効果を狙って間を置き、手のひらを自分のお腹に押し当てる。「それに、この子には両親が必要だから」
私は彼女の芝居を、完全に醒めた気持ちで眺めていた。三ヶ月前だったら、これで私は打ちのめされていたかもしれない。泣き叫んで、崩れ落ちていたかもしれない。でも今、私自身の中にも秘密が育っている今、彼女のくだらないショーは何の意味も持たない。この妊娠、この子。それが、この茶番のような結婚生活からの脱出チケットなのだから。
私は何も言わない。ただバッグを拾い上げ、ドアに向かう。
「羽原さん、資金の送金は早く済ませてね。それから不動産の権利書も、すぐに手続きして」
恵麻には一瞥もくれずに、私は彼女の横を通り過ぎる。
「茉奈!」直樹の声が私を追いかける。
私の手がドアノブを握りしめる。振り返らない。「新しい家族と、お幸せにね、羽原さん」
ドアがカチリと音を立てて背後で閉まる。それは、終わりの音のように聞こえた。
海辺の別荘は、消えゆく光の中で静まり返り、遠くで波が砕ける音がする。私は床から天井まである窓のそばに立ち、海が青から灰色へと暗くなっていくのを眺めていた。この家は三ヶ月前に買ったものだ。直樹が決して探しに来ようなどと思いつかないような、海辺の町にひっそりと佇んでいる。私の手は、自分のお腹の上にある。まだ平らで、まだ秘密を隠している。
ヒールを脱ぎ捨て、水を一杯注いでソファに身を沈める。外の空は、夜が訪れるにつれて金色から紫色へと滲んでいく。
三ヶ月前。あの夜。人生で最悪の瞬間、そしてどういうわけか、全てが変わった瞬間。
目を閉じると、私はあの場所に戻っていた。
画廊のオープニング。私は念入りに選んだイブニングドレスを着て、五分おきに携帯をチェックしながら二時間も待っていた。そこへ、彼からのテキストが届いた。
「急な重要会議だ。一人で行ってくれ」
私の誕生日。彼は私の誕生日を、完全に忘れていたのだ。
それでも私は行った。デザイナーズドレスに身を包み、シャンパンをちびちびと飲みながら、虚しさを感じてテラスに立っていた。その時、ドローンが現れた。光の群れが夜空に文字を描き出す。「恵麻、愛してる」と。
私の誕生日プレゼントは、彼が別の女へ送る公の愛の告白になった。街のエリートたちが集まるその場で、彼は彼女を選んだのだ。
私はその場を去った。ジャズバーを見つけるまで歩き続けた。暗くて、誰にも身元が知られないような店。そして、輪郭がぼやけるまで、次から次へと酒を注文した。
その夜の残りの記憶は、断片的だった。見知らぬベッドでの目覚め。高価そうなカーテンから差し込む陽の光。
ハッと目を開ける。海辺の別荘が、再び私の周りに、確固として現れる。携帯が鳴り、静寂の中で耳障りに響いた。知らない番号。
私は画面を見つめ、指を拒否ボタンの上でためらわせる。だが、何かが私に応答させた。
「もしもし?」用心深く。
あの声――低く、人を惹きつける、間違えようのない響き。胸がひときわ強く跳ねた。
「赤井茉奈。三ヶ月だ。随分と必死で探させたじゃないか」
電話を握る指に力が入る。息が詰まる。あの夜のことが脳裏を駆け巡る。断片的で、霞がかっているが、否定できない。
私は電話を切った。手が震えている。
いつかこの日が来ることはわかっていた。いつだって、結果は追いついてくるものだ。
私は目を閉じ、秘密のうちに新しい命が育っているお腹に手を押し当てる。
電話を握る指の関節が白くなる。
ただ、それが今だとは思わなかっただけだ。
