第2章
病院で二週間過ごした。左脚はギプスで固められ、傷は鈍くずきずきと脈打っている。けれど、それ以上に痛かったのは、瑛太の瞳に宿る冷たさだった。
数日前、瑛太が見舞いに来たとき、彼はスマホを手にしていた。
「これを聞け」
そう言って目の前に差し出し、再生ボタンを押す。
録音だった。背景が騒がしく、食堂で撮られたみたいにざわついている。
『……あの黒崎麗奈ってさ、家が金持ちなだけで調子に乗ってるだけじゃない? マフィアの娘だから何? そのうち絶対、痛い目見るって』
女の子の声がそう言った。
『うん、黒崎家って、けっこう黒いことしてるって聞くし……』
『しっ、声落として。あいつに聞かれたら終わりだよ……』
そこで録音は終わった。
私は瑛太を見つめた。
「それ……それ、私の声じゃ……」
「まだしらばっくれるのか?」
瑛太の目は失望でいっぱいだった。
「麗奈が言ってた。昼休みに食堂で、お前が麗奈の悪口を言ってたって。美月たちがたまたま動画に撮ってたらしい。絵奈、お前、そんなにあいつが妬ましいのか?」
「瑛太、違う! 私じゃない!」
焦って彼の手を掴もうとした。
「私、麗奈が誰かも知らなかった。転校初日に、どうしてそんな話できるの?」
「もういい」
瑛太は乱暴に手を振りほどいた。
「証拠がここにある。麗奈は、あの録音を聞いても善意でお前のところに来て、噂を広めるなって忠告しただけだって言ってる。それなのにお前はトイレで麗奈を脅して、黒崎家を潰してやるって言ったそうじゃないか」
「そんなの嘘! あいつらが、トイレの水を飲ませようとして――!」
「今度は作り話か!?」
瑛太の声が跳ね上がる。
「麗奈は、お前が突き飛ばしたから逃げたって言ってた。で、お前が追いかけて、窓から自分で飛び降りたくせに、今さら麗奈のせいにするのか? あの日だって、麗奈はお前をかばって、必死に言い訳してたんだぞ。それを、そんな形で返すのか?」
瑛太は深く息を吸い、怒りを押し殺そうとする。
「医者が退院していいって言った。手続きも全部済ませた。自分が何をしたか、よく考えろ」
そう言い残し、彼は背を向けて出ていった。
病室のベッドに横たわったまま、私はあの録音を頭の中で何度も何度も再生した。
あの声……わざと低く作ってあったけれど、わかる。美月が私の真似をしている。
最初から全部、仕組まれていたのだ。
録音も、罠も、そして麗奈が被害者を演じることも。
それなのに瑛太は、何もかも信じ込んだ。
―――
学校に戻った初日、私は「地獄」というものがどんな顔をしているのかを知った。
机には赤いマーカーで「尻軽」と殴り書きされていた。椅子にはインクがぶちまけられ、鞄はゴミ箱に投げ捨てられている。
廊下では、誰もが指をさしてひそひそ笑った。
「ほら、あれ。麗奈を陥れようとした子」
「麗奈が黒崎だから、嫉妬したんだって」
「クズはクズ。性格の悪さが顔に出てる」
美月がわざと肩をぶつけてきて、私はよろけて倒れそうになる。
「気をつけなよ、びっこ」
美月はにやりと唇を歪めた。
「また私のせいにしないでよね」
周囲でどっと笑いが弾けた。
生物の授業では、山田先生が講義の途中でぴたりと止まり、私を睨みつけた。
「灰原さん。私の授業、つまらないの?」
「いえ、そんなことは……」
「じゃあ、なんで黒板を見ないの? それとも自分はみんなより賢いから、聞く必要がないって?」
「わ、私は……」
言い終える前に、先生のスマホが飛んできて、私の額に叩きつけられた。
額から血が流れ落ちる。
「出て行きなさい!」
山田先生が金切り声を上げる。
「あなたみたいな腐った生徒、私の教室にいる資格はない!」
額を押さえたまま教室を飛び出すと、背後からクラスメイトの笑い声が追いかけてきた。
放課後、私は足を引きずりながらアパートへ戻った。ギプスの脚が重く、ずるずると後ろに引きずられる。
玄関のドアを開けた瞬間、鼻を突く塗料の匂いが顔にぶつかった。
部屋中が赤いペンキで汚されていた。壁も床も家具も、どこもかしこも赤い飛沫だらけだ。
そして何より目に焼きついたのは、壁一面に塗りたくられた文字だった。
「ビッチ、ブラックウッド学園から出ていけ」
私は膝から崩れ落ち、とうとう声を上げて泣き出した。
スマホが鳴った。瑛太だ。
「瑛太……」
喉が詰まり、声がかすれる。
「誰かが部屋にペンキを投げ込んで、私……」
「また自作自演か?」
瑛太が苛立たしげに遮った。
「絵奈、いい加減そういう遊びやめろよ。麗奈が言ってた。昨日、お前が男を雇って麗奈を襲わせたって。俺が間に合ったからよかったけどな」
「……え?」
耳を疑った。
「私、そんなことしてない!」
「証拠は揃ってる」
瑛太の声は氷みたいに冷たい。
「あいつらはもう自白した。お前に金をもらったって。絵奈、俺はお前のこと、完全に見誤ってた」
「瑛太、お願い、説明させて……」
「もういい。二度と電話してくるな」
通話が切れた。
私はスマホを握りしめたまま、赤いペンキの海の真ん中でへたり込んだ。
その夜、私は熱を出した。傷口が化膿し、額も焼けつくように熱い。
震える手で瑛太に電話をかけた。
「瑛太……具合が悪い……病院に連れてって……」
「芝居はやめろ」
瑛太はうんざりした声だった。
「今夜、麗奈と飯に行く約束なんだ。お前のくだらないことに付き合ってる暇はない」
「お願い……本当に、もう無理……」
「遊ぶなら、引き際ぐらい考えろ」
瑛太が冷たく笑う。
「本当に具合が悪いなら、自分で救急車呼べ」
そしてまた、通話は切れた。
私は冷たい床に横たわり、意識がどんどん遠のいていくのを感じた。
ペンキの匂いに血の金属臭が混じり、吐き気が込み上げる。
窓を打つ雨音がぱらぱらと続いている。
這うようにして窓辺へ行き、土砂降りの外を見た瞬間、幼いころのことがふっと蘇った。雨の日、瑛太はいつも迎えに来てくれた。
あのころの瑛太は、私がびしょ濡れになるのを嫌がった。
今の瑛太は、私が全部演技だと思っている。
涙で視界が滲んだ。
私はスマホを拾い、最後にもう一度だけ、彼の番号へかけた。
「灰原瑛太ぁ。あんたの妹、死にかけてるよ」
受話口の向こうから、とろけるように甘い麗奈の声がした。
「見に来る?」
「死ねばいい」
瑛太は驚くほど平然と答えた。
「どうせまた、俺を呼び出すための嘘だろ」
二人の笑い声が、電話越しに重なって聞こえた。
私はスマホを床に置き、目を閉じた。
世界が真っ黒に沈む、その直前。
玄関のドアが蹴破られる音がした。
