第3章
あのアパートで、私は死ぬんだと思った。
意識が戻った瞬間、鼻を刺すような消毒液の匂いがした。
病院だ。
「目、覚めたか」
低い男の声が、すぐそばから聞こえた。私は苦労して首を回し、ベッドの隣に座る見知らぬ男を見た。心配そうな目で、私の顔を覗き込んでいる。
「俺の名前は大輝ブラック」男は言った。
「昨夜、君のマンションの前をたまたま通りかかったら、玄関のところで倒れてるのが見えたんだ。病院に運んだのは俺だ」
「……ありがとうございます」声は自分でも情けないほど弱々しかった。
それから数日間、大輝は毎日私の病室に来た。温かいスープを持ってきて、本を持ってきて、黙ってそばにいてくれた。私がなぜ玄関先で倒れていたのか、彼は一度も聞いてこなかった。
「……気にならないんですか?」ある日、とうとう私が尋ねた。
「誰にだって事情はある」大輝は真剣な目で私を見る。
「話したくなったら聞く。話したくないなら、無理に聞かない」
その瞬間、目の奥がつんと熱くなった。いつぶりだろう。私を、裁かずに見てくれた人なんて。
学校へ戻ってからも、いじめは止まらなかった。それでも放課後になると毎日、大輝は正門の前で待っていた。
「今日どうだった?」彼はいつもそう聞いた。
「まだ生きてる」私はいつもそう答えた。
彼は私と並んで歩き、子どもの頃の笑える話をしてくれた。少しずつ、私は気づいてしまった。毎日の終わり――放課後が来るのを、私は楽しみにしている。
恋をしたのだと思う。人生でいちばん暗い瞬間に現れて、私にぬくもりをくれた、この人に。
あの午後、大輝が会いに来たとき、彼はひどい顔をしていた。左目の周りに黒い痣ができていて、誰かに殴られたみたいだった。
「頼む、助けてくれ」彼の目は絶望で濁っていた。
「母さんが心臓発作で倒れて、緊急手術が必要なんだ。でも金がない。親父がギャンブルで全部スったうえに闇金に借金まで作って……毎日家に来て、脅されてる」
彼は片手で顔を覆った。
「……もう、どれくらい持つか分からない」
「いくら……?」私は訊いた。
「二百万円」ほとんど聞き取れないほど小さな声だった。
それは、私がアルバイトで必死に貯めた全財産だった。本当は大学の学費にするはずのお金。
けれど、その瞳に浮かぶ絶望を見て、私は決めた。
「……あります。持っていってください」
大輝は私を強く抱きしめた。
「返す。絶対に返す。誓う」
翌日、私は貯金をすべて引き出し、彼に渡した。
「君は、俺の人生でいちばん大事な人だ」彼は耳元で囁いた。
「愛してる」
誰かに「愛してる」と言われたのは、それが初めてだった。
そして、あの優しい大輝を見たのは、それが最後になった。
金を受け取ったあと、大輝は姿を消した。電話は繋がらなくなり、どこを探しても見つからない。一週間、何もなかった。
八日目。
スーツ姿の男が二人、私を呼び止めた。
「灰原さんですね? うちのボスが会いたいそうで」
彼らは私を車に押し込み、港の埠頭近くにある、薄汚れた倉庫へ連れていった。
「大輝ブラックと親しいそうじゃないか」葉巻をくわえた禿げ頭の男が近づいてきた。
「あのチンピラ、うちに五千万円だ。だが逃げた。だから今度は別のやつに払ってもらう」
「そんなお金、ありません」
「金の話なんてしてねえよ」男の笑みがねっとりと歪む。
「お前みたいな可愛い子には、別の払い方がある。港のほうに店がある。そこで客の相手をしろ。そうすりゃ借金はチャラだ」
「嫌です。そんな――」
「選べねえんだよ。自分から行くか、引きずって行かれるかだ」
私は目を閉じた。
「……電話を一本だけ、かけさせてください」
大輝の番号を押す。今度は、繋がった。
「あなた、あの人たちに五十万円の借金があるって言われた。本当なの?」
「……ああ。ごめん」
「私を、あの店に送るって。あなたの借金の代わりに」
「駄目だ! 三日くれ! 俺が何とかする!」
三日後、扉が乱暴に開いた。大輝が飛び込んできた。さらに新しい傷だらけで、息も絶え絶えだ。彼は私の前に膝をついた。
「全部、俺のせいだ! 権田に土下座して、お前だけは勘弁してくれって頼んだ。でも駄目だった……お前をクラブ『蒼月』に送るって。あそこに行った女の子は……誰も、まともには戻ってこない」
私は彼の顔を見た。絶望が滲んでいる。その表情を見て、私は言った。
「大丈夫。行くよ」
「駄目だ!」大輝は私をきつく抱きしめた。
「お前を犠牲になんてできない!」
「今回だけ」私は彼を押しのけた。
「一回だけ行って、借金を清算して、それで終わりにする」
翌晩、私はクラブへ連れて行かれた。
男が三人、こちらへ歩み寄ってくる。
「ほら、可愛い子。俺らと一杯飲もうぜ」
手が、私の身体を撫で回した。叫びたかったのに、声が出ない。身体が凍りついたみたいに動かなかった。
終わったとき、私は床に横たわり、身体を丸めていた。
寮に戻ると、電話が鳴り続けた。交流サイトには私の裸の写真が溢れ返っていて、コメントが爆発していた。
「結局こういうやつか」
「売女」
ドアの外から声がした。
廊下に立っていたのは、麗奈と瑛太と――大輝だった。
「今夜、楽しかった?」麗奈が首をかしげる。
私は大輝を見た。信じられない、という思いで目が揺れた。
大輝は視線を逸らした。だが、口の端に笑みが浮かんでいる。
「残念だな」瑛太が言った。
「俺の妹が、娼婦だったなんてな」
「……どうして、こんなことを……」
「だって、あんたが悪いんだもん」麗奈は微笑んだ。
「ゲームは、まだ始まったばかりだよ」
大輝がようやく私を見た。瞳は冷たかった。
「二百万円、ありがとな。なかなかの演技だっただろ?」
