第4章
私は打ちのめされていた。走って逃げ出したかった。あの吐き気のする連中から、一刻も早く離れたかったのに、大輝が私の手首をつかみ、車へ乱暴に押し込んだ。
そして、私は閉じ込められた。
恐怖と絶望のなかで、日々だけがずるずると引き延ばされていった。
一週間ほど経ったころ、体のどこかがおかしいと感じ始めた。吐き気。めまい。匂いへの妙な過敏さ。
再び大輝が現れたとき、私は妊娠検査薬の結果を突きつけるようにして、彼の顔へ叩きつけた。
「……妊娠した」
大輝は一瞬、固まった。表情がすっと陰っていく。
それから数週間、あいつの態度は百八十度変わった。毎日、新鮮な食事やビタミン剤を持ってきて、挙げ句の果てには私を診せるために私人の医者まで雇った。
その偽りの優しさは、拷問よりも息苦しかった。心配しているふりをするたび、私の腹に手を当てるたび、胸の奥がむかむかして吐き気がした。
――麗奈が現れる、その日まで。
麗奈はやつれていて、顔色は青白く、目は赤く腫れていた。
「あなた、妊娠してるって聞いた」
「だから何?」
「……私、病気なの」声が急に弱々しくなる。
「腎不全。移植が必要で……医者が言ったの。あなたの腎臓が、ぴったり合うって」
私は冷たく笑った。
「それで、腎臓をちょうだいって頼みに来たの?」
「頼むんじゃないわ」麗奈の表情が瞬時に獣みたいに歪んだ。
「命令よ」
翌日、瑛太が来た。
「絵奈、麗奈にお前の腎臓が必要なんだ」
「嫌」
瑛太の手が喉元を締め上げ、私は壁へ叩きつけられた。
「今、なんて言った?」
「嫌だって言った!」私はありったけの力で叫んだ。
「あの女は私の人生をめちゃくちゃにした。それでも助けろっていうの!?」
「麗奈は死ぬんだぞ!」瑛太の目は血走っていた。
「お前はそんなに冷たいのか?」
「冷たい?」涙が止まらないまま、私は笑った。
「浴室で、トイレの水を無理やり飲ませようとしたのは誰? 私を陥れて評判を潰したのは誰? 瑛太、覚えてる? 前は何て言ってた? ずっと私を守るって言ったじゃない」
「過去の話をするな!」締め付けが強くなる。
「今、麗奈にはお前が必要なんだ。助けろ!」
「たとえ命を失っても、あの女に何ひとつ渡さない!」
瑛太は手を離し、私は床に崩れ落ちた。
「後悔するぞ」
――
それから数日間、瑛太と大輝は交代で私を屈服させようとした。
脅し、懇願、膝までつく土下座――それでも私は歯を食いしばり、決して折れなかった。
あの午後までは。
麗奈が来た。階段のそばに、ふらふらと立っている。
「絵奈……一緒に上に行って、セーター取ってくれない? 寒いの」
私は迷った。確かに、弱っているように見えたからだ。
私たちは階段を上がった。上り切る直前、麗奈がふいに足を止める。
「ねえ、知ってる?」囁くように言い、口元を奇妙に吊り上げた。
「私、ぜんぜん病気じゃないの」
「……は?」
「浴室の日さ、なんであの洗剤を飲まなかったの?」目が狂ったように光る。
「飲んでれば、全部終わってたのに。こんなふうに苦しまなくて済んだのにね」
言い終わるや否や、麗奈は私を思いきり突き飛ばした。
体が丸ごと、後ろへ投げ出される。
鋭い痛みが腹を引き裂き、温かい液体が脚のあいだを伝って流れ落ちていった。
床に横たわり、視界がにじむ。
「たすけて……たすけて……」
足音が響いた。大輝と瑛太、それに麗奈の友人らが数人、私を取り囲む。
「またかよ」大輝が嘲るように鼻で笑った。
「絵奈、お前の芝居にも限度ってもんがあるだろ」
「ほんとそれ。前は具合悪いふりして瑛太を騙して、今度はこれ?」美月が腕を組む。
「また引っかかると思ってるの?」
「ちがう……ほんとに……血が……」震える手で、私は助けを求めるように伸ばした。
瑛太は私を一瞥し、顔いっぱいに嫌悪を浮かべた。
「それ、ケチャップか? それとも赤インクか? 絵奈、麗奈を陥れるために、そんな安い手まで使うわけ?」
「どう見ても、麗奈が突き落としたってことにしたいんでしょ」沙耶が嘲るように笑った。
「演技下手すぎ」
「瑛太……お願い……信じて……」
「いい加減にしろ!」瑛太はいきなり私を蹴った。
「この性悪女! 麗奈はあんなに優しいのに、お前は何度も傷つけようとしやがって!」
大輝がしゃがみ込み、私の顔をつかんだ。
「こんな芝居したら、俺が甘くなるとでも思った? 言っとくけど、ありえねえ。お前より演技が上手い奴なんて、腐るほど見てきた」
「尻軽は尻軽のまんま。一生それ以外にはなれないわ」恵茉が唾を吐くように言った。
麗奈は階段の上に立ち、勝ち誇った光を目に宿していた。
「絵里、これじゃ私、すごく困るの……腎臓を提供したくない気持ちは分かるけど、だからってこんなことして私を追い込まないで」
「……お前ら……全員……絶対、後悔する……」声がどんどん弱くなっていく。
「まだ脅すのか?」瑛太が鼻で笑う。
「部屋に放り込め。外に出して、みんなの気分を悪くさせるな」
大輝は私を引きずり上げ、ゴミみたいに部屋へ投げ戻した。
「大人しくしてろ。麗奈の手術は明日だ。その時になったら、俺が直々に人を連れて腎臓を取りに来る」
扉が叩きつけられるように閉まった。
私は床の上で身を丸めた。それでも血は止まらない。
痛みが私を丸ごと飲み込んでいく。自分の呼吸の音だけが聞こえた。かすれて、さらにかすれていく。
やがて、すべてが真っ暗になった。
――
翌朝。
麗奈はベッドに横たわり、青白い顔で弱っているふりをしていた。
「だ……だめ……気分が最悪……手術、いつできるの……?」
「もうすぐだ」大輝が彼女の手をぽんぽんと叩く。
「今から絵奈を連れてくる」
瑛太も彼に続き、私が監禁されている部屋へ向かった。
「今度また何かやらかそうとしたら、絶対に許さない」
大輝が扉を乱暴に押し開けた。
部屋は空っぽだった。
「どこだ?」眉をひそめる。
「ボス」手下の一人が慌てて駆け寄ってきた。
「灰原さんをお探しで?」
「他に誰がいる。どこにいる?」
男は一瞬固まり、表情が妙に強張った。
「……き、昨日……亡くなったんじゃ……?」
大輝と瑛太の身体が同時に強直した。
「今、なんて言った?」
「昨日、部屋に放り込めって指示がありましたので、そ、その通りに……」男は慎重に言葉を選ぶ。
「今朝様子を見に行ったら、もう息をしていなくて。この暑さで、遺体も……もう臭いが出始めていました。家の決まりに従って、こちらで処理を……」
「ふざけるな!」瑛太が拳を壁に叩きつけた。
「また芝居だ! お前らに金でも握らせて、死んだふりに協力させたんだろ!」
「ち、違います、瑛太さん。遺体は本当に……もう、腐敗が始まってて……」
大輝の顔色がさっと失せた。
「遺体を持ってこい。どうやって芝居を続けるつもりか、この目で見てやる」
十分後、男たちが黒い遺体袋を引きずってきた。
言葉にしがたいほどの悪臭が、一瞬で部屋を満たす。
麗奈は鼻を押さえ、顔を青くした。
瑛太が遺体袋を蹴った。
「絵奈! 芝居はやめろ! 出てこい!」
「……本当に亡くなってます、瑛太さん」男は震え始めていた。
「昨日は大量出血があって、お腹も強く打っていて……俺たちは、てっきりお二人ともご存じかと……」
「黙れ!」大輝が怒鳴り散らした。
「こいつは死んだふりだ。袋を開けろ!」
男の手が震え、ファスナーを下ろしていく。
瑛太は一歩後ずさり、顔面が死人のように真っ白になった。
