第4章
夜が更けた頃、治郎がまた咳き込み始めた。
私は客間の布団に横たわり、薄い壁越しに聞こえてくる、押し殺したような咳の音に耳を澄ませていた。その一つ一つが、針のように私の胸を刺す。
やがて咳は止んだが、私の眠気はすっかり吹き飛んでしまっていた。
部屋をそっと抜け出し、水を飲みに台所へ向かう。治郎の書斎の前を通りかかったとき、ドアの隙間から青白い光が漏れているのに気がついた。
まだ起きているのだろうか?
好奇心に駆られ、そっとドアを開けてみた。治郎は私に背を向けてパソコンの前に座っており、その肩が咳のせいで小刻みに震えている。そして、画面に映し出されたものを見て、私は息を呑んだ。
そこにあったのは、医学的な診断書だった。専門用語がびっしりと並んでいたが、いくつかの言葉だけが、残酷なほどはっきりと目に飛び込んできた。「急性リンパ性白血病」、「末期」、「余命、三~六ヶ月」。
治郎が白血病であることは知っていた。でも、これほど深刻だとは思いもしなかった。三ヶ月から、六ヶ月? その数字が何を意味するのか、私には痛いほどわかった。
とっさに手で口を覆ったが、小さな悲鳴が漏れるのを止めることはできなかった。
治郎が振り返った。私を見ると、その顔に諦めと、そして安堵のようなものが一瞬よぎった。
「見ちゃったか」彼の声は、恐ろしいほど穏やかだった。
膝から崩れ落ちそうになり、涙で一瞬にして視界が滲む。「治郎、あなた……あと……」
「三ヶ月から、六ヶ月」彼はその残酷な数字を、まるで重荷を下ろしたかのような軽やかさで、はっきりと口にした。「詳しいことまで、君に知らせるつもりはなかったんだがな」
「どうして教えてくれなかったの?」私の声は震えていた。「どうして治療を続けないの?」
治郎は苦笑を浮かべて首を振った。「真由美、やれることは全部やったんだ。化学療法、放射線治療、骨髄移植……。もう、あらゆる選択肢を使い果たした。俺の体は、もうこれ以上耐えられない」
私は彼に駆け寄り、その腕を掴んだ。あまりにも細い――皮と骨ばかりの腕。胸が息もできないほど痛んだ。
「じゃあ、諦めるってこと? ただ死ぬのを待つっていうの?」
「諦めるんじゃない」治郎の目に苦痛の色が走った。「現実を受け入れるということだ」
彼のやつれた顔を見ていると、ふと、あの写真の少女のことが頭をよぎった。「星奈ちゃんのせいなの?」
その名を聞いた途端、治郎の体がこわばるのがわかった。長い沈黙の後、彼はようやく口を開いた。「こっちへ来てくれ」
居間では、照明から壁に投げかけられた暖かなオレンジ色の光が、静かに揺らめいていた。治郎はソファに腰掛け、以前私が見たあの写真を手にしていた。
「うちの家系は、遺伝なんだ」治郎の声は、羽のように軽かった。
私の心は、底なしに沈んでいった。
「私は、あの子が苦しむ姿を、その一瞬一瞬をずっと見ていた」治郎の指が、写真の中の少女の顔を優しくなぞる。「化学療法で髪は全部抜け落ちて、水さえも受け付けずに吐き続けた。毎晩、痛みのせいで眠れず、ただ俺の手を握って泣いていた」
涙が私の頬を伝った。十八歳の少女が耐えなければならなかった苦しみを、想像することさえできなかった。
「あの子は最期に、こう言ったんだ。『治郎兄さん、もし兄さんもこの病気になったら、私みたいな苦しみは絶対に経験しないで。人生はただでさえ大変なのに、どうしてそんなに苦しまなきゃいけないの?』って」
治郎の声は途切れ、二度と戻らない妹を繋ぎ止めようとするかのように、写真を強く握りしめた。
「私は、彼女のお兄ちゃんだった。守ってやるべきだったんだ。なのに、星奈が消えていくのを、ただ見ていることしかできなかった」
私は手を伸ばし、そっと彼の手を取った。「あなたのせいじゃないわ、治郎。あなたは、できる限りのことをした」
「でも、救えなかった」治郎は自責の念に満ちた目で首を振る。「そして今、私も同じ道を辿っている」
私の心は、完全に砕け散った。死そのものへの恐怖からではない。この優しい人が、あまりにも不当な痛みと罪悪感を背負っていることに対してだった。
「もし……もし、希望があるとしたら?」私は慎重に尋ねた。「もし、他にも治療法があるとしたら?」
治郎は悲しげに微笑んだ。「真由美、私は世界最高の医者たちに診てもらったんだ」
それでも、私は信じようとしなかった。希望が残されていないなんて、絶対に信じたくなかった。
自室に戻り、ノートパソコンを開いて急性リンパ性白血病の最新治療法を夢中で検索した。
一時間、二時間、三時間……。目は疲労で焼け付くようだったが、止める気にはなれなかった。
午前四時、ついに私はある情報を見つけ出した。
金田先生。有名な血液学者で、急性白血病の治療において革命的な進歩を遂げた人物だ。彼が開発したCAR-T細胞療法は、従来の治療法よりも成功率が四割も高いという。
胸が高鳴った。これこそが希望だ!
しかし……読み進めるうちに、私の心は再び沈んだ。金田先生は三ヶ月前に病院を退職し、今は地方の山奥で隠居生活を送っており、新しい患者は一切受け付けていないとのことだった。
だめ、諦めるわけにはいかない。
私は彼が勤めていた病院に電話をかけた。
「申し訳ありませんが、金田先生はすでに退職されております」電話口の看護師は残念そうに言った。「今はL市北部の山奥にお住まいです。詳しい住所はお教えできませんが、しかし……」
「しかし、何です?」私は身を乗り出して尋ねた。
「もし本当に緊急なのでしたら、松の谷の郵便局に連絡を取ってみるといいかもしれません。そこの郵便配達員なら、先生への連絡方法を知っている可能性があります」
私は急いで住所を書き留め、費用の計算を始めた。両親が遺してくれた保険金は、3,000万円。これだけあれば足りるはずだ。足りなければならない!
地平線に夜明けの最初の光が現れる頃、私はようやくノートパソコンを閉じた。心には、とうに忘れていた希望の火が灯っていた。
治郎、私があなたを救ってみせる。
翌朝、治郎は居間のソファで力なく体を休めていた。その顔は紙のように白い。私が興奮して駆け込んでくると、彼は不思議そうな顔をした。
「治郎!」私は彼の目の前に飛び出すように言った。「見つけたの! あなたの病気を治せるかもしれないお医者様を!」
治郎は眉をひそめた。「真由美……」
「金田先生よ!」興奮のあまり、まともに言葉も紡げないまま、私は彼の言葉を遮った。「CAR-T細胞療法の専門家で、従来の治療法よりずっと治癒率が高いの! もう引退されてるけど、連絡を取る方法を見つけたのよ!」
治郎の表情には、私が期待したような興奮は見られなかった。それどころか、ますます重苦しくなっていく。
「真由美、私はもう苦しみたくない」彼の声は疲れていたが、断固としていた。「もう、十分すぎるほどの痛みに耐えてきた。残された時間は、ただ静かに過ごしたいんだ」
「だめ!」私はほとんど叫んでいた。「諦めちゃだめ!」
「どうしてだ?」治郎は目に怒りの色を宿して問い返した。「化学療法がどれだけ苦しいか、君にわかるか? 毎日、死の淵をさまようのがどんな気持ちか、わかるのか?」
彼の言葉に私は絶句したが、すぐに意地が頭をもたげた。
「だって、星奈ちゃんなら、あなたに生きてほしいって思うはずだから!」私は彼の目をまっすぐに見つめ、一言一言に力を込めた。「彼女が最期に言ったのは、諦めろってことじゃない。無駄な苦しみをしないでってことよ。これは無駄じゃない、治郎。これは、希望なの!」
治郎の体が、わずかに震えた。
「それに……」私の声が震え始める。「私だって、あなたに生きてほしい。この数日間は、ここ何年かで一番幸せだった。あなたを失いたくない。もう、誰も失いたくないの」
涙で視界がぼやけていたが、治郎の目にも涙が浮かんでいるのがわかった。
長い沈黙の後、彼は震える手でそっと私の頬に触れた。
「わかった」彼の声は、ため息のように柔らかかった。「やってみよう」
私は彼を抱きしめ、その腕の温かさを感じた。その瞬間、世界中が明るくなったような気がした。
絶望の庭に、ようやく希望の花が咲いたのだ。
