第1章

リラの視点

「ほんと? リラ、本当に……決めたの?」

 電話の向こうの兄、セスの声が弾んでいる。信じられない、という驚きと、隠しきれない喜びが混じっていた。

 私は壁際に背を預け、遠く――人だかりの中心で行われている、クロエのための盛大な歓迎セレモニーを見つめた。口元がひきつり、苦い笑みになる。

「うん。できるだけ早く、手続き終わらせる」

「やった!」セスが大きく息を吐く。

「前からずっと、おまえをあんなクソみたいな場所から出したかったんだ。分かってるか? この三年、おまえが傷ついて泣くのを何度も見てきたのに、俺は相手がどこのどいつかすら知らないままで――」

 押さえ込んでいた怒りが、声に滲む。

「昨日もあのクズ、また約束すっぽかしたんだろ? 正式に会うって言ってたくせに、また失踪だ。おまえが止めなかったら、とっくに飛んでって引きずり出して殴ってた!」

 一拍置いて、さらに苛立ちが濃くなる。

「それにケイデンの野郎もだ。おまえのこと、面倒見てくれって俺が頼んだのに、目の前であんな目に遭わせておいて、クソ野郎を一発でも懲らしめようともしねぇ。会ったら絶対、きっちり言ってやる」

 私は目を閉じた。

 もしセスが、その「クズ男」が自分がいちばん信じている親友――ケイデンだと知ったら。どんな顔をするんだろう。

「……もういいよ、兄さん」私は遮った。声が掠れている。

「全部、終わったこと。私、ただ出ていきたいだけ」

 通話を切り、顔を上げる。数歩先の、豪奢で騒がしいパーティ会場へ。

 ケイデンはクロエの腰を抱き、長老たちに一人ずつ紹介して回っていた。暗影部落が総力を挙げて用意したに違いない。クリスタルのシャンデリア、シャンパンタワー、輸入物の赤ワイン――その贅沢の全部が、彼女の「帰還」を祝うため。

 三年前、クロエは「芸術の夢を追う」と言って暗影部落を出た。ケイデンを置いて、ひとりでヨーロッパへ。向こうで強大な部落のアルファと婚約した、なんて噂まで流れ、誰もが――もう戻らないと思っていた。

 あの頃のケイデンは、ほとんど狂っていた。

 彼女に関するものを片っ端から壊し、名前を口にすることすら禁じた。酒に溺れて、自分から堕ちていって、それどころか――

 そして今、クロエは戻ってきた。

 泣きながら、あのアルファに虐待された、無理やり引き離されたのだと訴え、この三年ずっとケイデンを想っていたのだと。

 ケイデンは信じた。全部。何も疑わずに。

 人の輪の真ん中で、ケイデンはクロエを抱いて祝福を受けている。あんなに眩しい笑顔――三年間一緒にいても、一度だって見たことがない。

 胸の奥で、私の狼が咆哮した。痛みが全身を裂くみたいに広がっていく。

 今朝から熱があった。昨夜、雨の中で彼を追いかけて半分ほど街を走ったのに、ケイデンは振り返りもせず車で空港へ向かった。それでも彼は言った。暗影部落の人間は全員出席だ、と。――私みたいな「居候の妹」も含めて。

 見せつけるためだ。私の目に焼きつかせるため。

 私は踵を返した。タトゥーショップの仕事がある。こんな場所に一秒だって長くいたくない。

「リラ」

 背後から、ケイデンの声。

 身体が固まる。昨夜、最悪の別れ方をして以来、初めて呼ばれた名前だった。

 振り向くと、ケイデンがクロエを連れて近づいてきた。

「厨房で、クロエにウェルダンのステーキ用意して」見下ろす視線が冷たい。

「胃が弱いから。火はしっかり通したやつしか食べられない」

 心臓が、ぎゅっと縮んだ。

 三年間、私はこっそり夜食を作ってきた。ステーキは火加減を神経質なくらい調整した。ケイデンはミディアムレアが好きで、赤ワインのソースを合わせると機嫌がよかった。食べ終わるたび、「おまえのだけは食える」と言って抱き寄せ、口づけをくれた。

 それなのに――彼女のために、私に作れと?

「ケイデン、ライラに頼まなくてもいいよ」クロエが甘えるように袖を引く。

「サラダでいいし」

「だめ。ちゃんと肉を食べて栄養つけないと」ケイデンは優しく彼女の髪を撫で、それから私へ向き直る。瞳の温度が、途端に落ちた。

「行け。どうせ暇だろ」

 どうせ暇だろ。

 呼べば来る、都合のいい使用人みたいに。

 爪が掌に食い込み、痛みが私を現実に繋ぎ止める。

「……分かった」

 厨房には私ひとりだった。

 調理台に寄りかかり、冷水を熱い頬に浴びせる。熱で手が震える。それでも無理やり動かして、ステーキを焼き上げた。

――これが最後。

 皿を持って厨房を出て、会場を見渡す。

 ホールには、いない。

 角を曲がった先の、休憩室の扉の前で足が止まった。

 扉は半開き。

 隙間から見えたのは、ケイデンがクロエを壁に押しつけ、むさぼるように口づけている姿だった。手がスカートの中へ潜り込み、荒く、焦れったいほど拙速で――彼女を自分の身体に溶かしてしまうみたいに。

 クロエが目を開き、ケイデンの肩越しに私を見た。

 笑った。勝ち誇った、毒のある笑み。

 そして腕を伸ばしてケイデンの首に絡め、キスをさらに深く、露骨にする。わざと艶を含んだ吐息を漏らし、甘い声で啼いた。その一つひとつが刃になって、私の心臓を刺す。

「ケイデン……」クロエが息を乱しながら囁く。

「ここじゃ……だめ……誰かに見られちゃう……」

「来ねぇよ」ケイデンが荒い息のまま言う。

「もういい。今すぐ欲しい」

 クロエの指が彼のベルトを外し、挑発するように声を弾ませた。

「じゃあ……この数年、あなたが遊んできた女たちと比べて……誰がいちばん気持ちよかった?」

 ケイデンの呼吸がさらに重くなる。

「女? 名前すら覚えてねぇ」

 クロエが一瞬だけ間を置き、意地悪く笑った。

「そうなの? でも、あなたのそばにはずっと『小さくて可愛い子』がいたって聞いたけど。あの子……ベッドの上、上手だった?」

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