第2章
リラの視点
ケイデンの動きが、一瞬だけ固まった。
次の瞬間、奴はさらに強くクロエの首筋へ噛みつき、掠れた声で、焦れたように言った。
「もちろん、おまえだ。あいつが、おまえに敵うわけないだろ。暇つぶしの玩具にすぎない。……おまえだけだ。おまえだけが、俺をここまで狂わせる」
その瞬間、心臓が止まった。
胸が裂ける痛みじゃない。感覚が薄れていくみたいな、空っぽの痺れ。誰かに心臓を引きずり出され、踏み潰されて、それでもこう言われた気分だった。――ほら、もともと安いものだっただろ。
私は踵を返して歩き出した。
問い詰めもしない。泣き喚きもしない。逃げるみたいにホールを飛び出し、バイクに跨がって、スロットルを限界まで開けた。体内の狼が狂ったように吠え、胸を引き裂きそうになる。それでも私は、歯を食いしばって押し殺した。
エンジンの咆哮が、すべてを呑み込んだ。
風が刃みたいに頬を切る。涙は吹き飛ばされ、残るのは灼けるような痛みだけ。どれだけ走ったのか、わからない。タトゥーショップに戻ったとき、まだ手が震えていた。
ドアを押し開け、冷蔵庫からウイスキーを取り出す。
一本、二本、三本――
意識が霞むまで飲んで、ソファへ崩れ落ちた。
その夜、私はこの三年のどの夜よりも深く眠った。夢を見ない。夜中に奴がこっそり私の部屋へ入り込んで、声を出すなと囁く夢も。『明日には公にする』と言っては何度も反故にする夢も。ベッドの上で、別の女の名前を呼ぶ夢も。
だって、最悪はもう起きたから。
翌朝、目を開けると日差しが刺さった。
起き上がると、周囲は空の酒瓶だらけ。頭は割れそうで口の中は苦いのに、心だけは妙に澄んでいた。
顔を洗い、バイクで学校へ向かう。
教務の先生は仕事が早く、一時間で転校の書類を揃えてくれた。ただ最後の一枚だけは保護者の署名が必要で――この街で私の保護者は、ケイデンだった。
その欄を見つめて、思わず笑いそうになる。
出ていくことさえ、奴の許可がいる。
書類を握ってタトゥーショップへ戻り、ドアを開けた瞬間、全身が凍りついた。
店内は、めちゃくちゃだった。
壁に貼っていた私のタトゥーデザインの原画は、丁寧に裂かれて紙屑になり、床には叩き割られたインク瓶。作業台は倒され、マシンは粉々。大切に集めていたタトゥー雑誌まで、引き裂かれてそこら中に散らばっていた。
「やっと帰ってきたのね」
奥から、クロエの声。
彼女は唯一無事だった椅子に座り、脚を組んで、勝ち誇った笑みを浮かべている。横にはケイデン。無表情のまま、私を見ていた。
「リラ、ごめんなさいね」クロエは申し訳なさそうに笑った。
「ここでお花屋さんをやりたいの。暗影部落の店舗は融通が利くって、ケイデンが言ってくれて。……気にしないでくれる?」
壊されたものに視線が走る。壁の原画は、どれも徹夜で描いたものだった。輸入のインクは、半年かけて貯めた金で買った。
「部落には空き店舗がいくらでもある」ケイデンが冷たく言い放つ。
「適当に別を選べ。クロエの開店の邪魔をするな」
適当に、別を。
三年前、こいつがこの店を私に渡したときは、こう言ったはずだ。
「くそ……わざとじゃない。……これで埋め合わせにしろ」
そのとき私は、少しは私のことを気にしてくれているんだと思った。
「わかった」自分の声が、驚くほど静かだった。
「荷物まとめたら出ていく」
私はしゃがみ込み、床に散った、まだ使えそうなものを拾い始めた。残っているものなんてほとんどない。大半は叩き壊されていた。
ケイデンはその場で私を見ていて、どこか意外そうだった。こんなに素直に従うとは思っていなかったのだろう。
「リラ……」奴が口を開く。
私は無視して鞄から転校書類を取り出し、立ち上がって差し出した。
「これ、署名が必要」
「は?」ケイデンが眉をひそめて受け取り、目を落としかけた、そのとき――
「あっ!」
クロエが突然悲鳴を上げ、指を押さえた。涙が一気に滲む。
「どうした?」ケイデンは書類を放り出して彼女のところへ駆け寄った。
「手が……」クロエは委屈そうに指を差し出す。細い切り傷から、血が小さく滲んでいた。
「さっき床のタトゥー針に触れちゃって……痛い……」
彼女は私を見て、怯えたみたいに唇を震わせた。
「ごめんなさい、リラ。わざとじゃないの……」
ケイデンの顔色が、一瞬で沈んだ。
「片付け方ってもんがあるだろ」私を睨み、怒りを押し殺した声で言う。
「こんな危ねえものを放置して。クロエが感染したらどうする」
床に散らばる、叩き壊されたものの山を見下ろして、急に可笑しくなった。
誰が私の店をこんなふうにした。今さら私のせい?
でも、もう疲れた。説明する気にも、言い争う気にもなれない。
「ごめんなさい」淡々と言って、引き出しから軟膏を一本取り出し、差し出した。
「よく効く。私も前に刺したことがあるけど、これ塗ればすぐ引く」
ケイデンは軟膏を受け取って一瞥し、眉間の皺をさらに深くした。
「こんな得体の知れねえもんをクロエに使わせる気か」そう吐き捨て、軟膏をゴミ箱へ放り投げる。
「肌が弱いんだぞ。アレルギーでも出したらどうする」
「ケイデン、もういいの……」クロエが彼の袖を掴み、力のない声で言った。
「リラも、きっと良かれと思って……」
「どこがだ」ケイデンは鼻で笑い、クロエの肩を抱いた途端、声色だけは甘くなる。
「行くぞ。病院でちゃんと診てもらう。こういう傷は一番厄介だ」
奴はクロエを支えたまま外へ向かい、転校書類のことなど、すっかり忘れて床に置き去りにした。
ドアが閉まり、店にはまた私ひとり。
私はゴミ箱のそばへ歩き、捨てられた軟膏を見下ろした。
包装は古び、文字もかすれている。
三年前のことだ。タトゥーを習い始めたばかりで手つきも拙く、手はいつも傷だらけだった。ある日、ケイデンがそれを見て、何も言わずにポケットから軟膏を取り出し、私に投げて寄越した。
「手元が雑だ」眉をひそめて言った。
「血で汚すな」
そのときの私は、馬鹿みたいに嬉しくて、宝物みたいにそれを大事にした。傷を作っても、もったいなくて少しずつしか使わない。できるだけ長く、残しておきたくて。
今思えば、あいつはただ、私が怪我をしているとセスに言い訳が面倒だっただけなのだろう。
私は息を吸い込み、片付けを続けた。
持っていけるものは多くない。段ボールひとつで足りた。
箱を抱えて出ようとした、そのとき。
クロエが、ふいに入口に立ち塞がった。
